4 LOVES
/ 4つの愛(小説)
Fumikodori Saito / 斉藤史子鳥
(抜粋 / excerpt)
Part 1; What should I do? / Adventure – 14 years old Kaori
/ 第一話; 私はどうしたらいいの? / 冒険~14歳のカオリ
Part 2; Beyond Me / Sex – 20 years old Kaori
/ 第二話; 私を超える / 性~20歳のカオリ
Part 3; Wandering alone, traveling the world / Politics – 26 years old Kaori
/ 第三話; 一人さまよう、世界の旅へ / 政治~26歳のカオリ
Part 4; My husband is a genius / New life – 32 years old Kaori
/ 第四話; 私の夫は天才だった / 再生~32歳のカオリ
…………………………………
第一話 『私はどうしたらいいの? / 冒険~14歳のカオリ』
第1章 女の場合
第2章 男の場合
第3章 脳さらい
第4章 愛の駆け引き
第5章 私は思う
第1章 女の場合
1
ネットで、1人だけ、面白そうな男を見つけた。
年齢は48歳。職業は貿易商、だって。ほんとかしら? 年も48歳なんて、とてもそうは見えない。この写真がホンモノなら、もっとずっと若いよ。せいぜい40歳? ひょっとしたら35歳? 何か秘密がありそう。怪しいやつだ。
大金持ちで、海外で仕事をし、日本と海外を行ったり来たりしているという。かなり得体の知れない男。「18歳の恋人求む」なんて宣伝広告を出してるヘンなやつ。広告を出すなんて、お金はあってもモテナイから? または少女趣味? 変態? 最近はおかしな変態も多いらしい。18歳の女が欲しいなんて、ロリコンで身近な人たちに知られると困るのかも知れない。人に言えない秘密があることは間違いない。
でも、一体どんな秘密なの? この男の雰囲気は死んだお父さんと似ている。この男は面白いことをネットで書いている。写真の顔はお父さんとは全然違うし、好みのタイプとはまったく違うけど、こんな男とつき合うと私も新しい世界に出られるのかも知れない。
私の名前は海原アツコ。14歳。
隣の駅が、江戸川を渡ってすぐ東京都という、千葉県松戸市にお母さんと二人で住んでいる。海原の読みはウミハラで、お母さんの話しでは先祖は南の海から来たそうだ。日本人の起源は南方ルート・北方ルート・朝鮮ルートの3つもあって複雑らしいけど、私は南方系。とにかく家系には男も女も血の気の多い者が沢山いて、私もその血を引いているらしい。お父さんは2年前に死んだ。一人っ子。お母さんが通訳として働いて私を養っている。でも貧乏ではないようでお父さんが遺してくれた遺産があるらしい。松戸は、田舎なのに、都会みたい。都会かと思えば、まるで田舎。ちょっとだけ奇妙な町だ。千葉県にはこんな町が多い。どっちにしても、いま私が暮らしてる世界には、学校も、家も、町も、もう耐えられないよ。この世界が私を苦しめるというより、私にはほんとに何の魅力もない世界になってしまった。
退屈。
それも、死ぬほど。
私はもう感じるということがなくなった。
感覚が麻痺したんだ。誰と会っても、何を見ても、ドキドキしない。新しいことが何も起きない。古いことの繰り返しばかり。私のアンテナが錆びついている。ボーイフレンドの浩介や健太たちとのセックスも、最初の頃はよかったけど、いまでは苦痛。全然感じなくなってしまったから。一体どういうこと? まだ若いのに。感じないことがこんなに人間を苦しめるなんて、知らなかった。こんな世界にいたら伸び盛りの私が腐っちゃう。私のからだの一部はすでに腐りはじめた気がする。最近何だかイヤな匂いがするようになった。生理の時に少し匂うのとは違う。別の種類の匂いだ。浩介や健太に「わたし、最近変でしょ? からだ、臭くない?」と聞いても、何も言わない。私の錯覚なの? そうじゃない。あいつらは私の質問に関わるのがイヤで面倒だから、何の返事もしないだけの事を私は知っている。
お父さんが生きていた時は、まるで違った。お父さんが生きていた時は、まだお父さんの背中の後ろの方で何かが動いていた。それは新鮮だった。光輝いていた。お父さんはいつも何か輝くものを連れていた。何だかわからないけど、それが魅力だった。でもそれもとっくに消えた。お父さんが死んでもう2年も経ったから。お父さんはもうこの世にいない。そしてお父さんが死んだ途端に、すべてのものに魅力がなくなった。学校も、勉強も、友だちも、男も、世の中も、すべて。あんなに好きだった本を読むのもやめた。世界から光が失われ、私は感じなくなった。何もしたくない。ただ、だるい。やたら疲れる。私は腐りはじめた。だから私は自分からこの世界を出て行くしかなくなったのだ。
セックスで感じなくなっただけじゃない。食べることがあれほど好きだったのに、食欲も完全に失くした。1年前には体重が48キロだったのに、昨日お風呂で計ったら40キロに減っていた。身長は156センチで変わらないけど1年で体重が8キロも減るなんて。育ち盛りなのに。あり得ない事態だ。食べないから仕方ないけど。
それで、一度お母さんに連れられて車で20分の慈恵医大附属病院という大きな病院に行った。でも、内科の診察では特に異常なし。軽い拒食症だって。慎重なお母さんは私を精神科にも診せたけど、何も異常なし。先生は「どこも悪い兆候は見当たりません」だって。ひどいやぶ医者だ。変な夢を沢山見て眠れない、とにかく辛いと私が泣いているのに、きっと原因があると訴えているのに、お母さんは大きな病院の先生の診断なのでそれを信用してしまった。その日から、家では拒食症対策が始まった。でも、私にはわかっている。拒食症は症状であって原因ではない。原因を見つけて直さなければ私は元に戻れない。案の定、お母さんの方法は何の効果も上げなかった。ただ病院で言われた通り、私の不規則な生活のリズムを変え、食事の内容を変えただけ。私の好きなものばかりつくってくれるようになったけど、効果はゼロ。何を食べるかではなく、食べること自体がイヤなのだ。食べるとほとんど吐くようになり、私の具合はどんどん悪くなっていく。体重が更に4キロも減って36キロになり、とうとう私は入院した。慈恵医大附属病院は嫌だったので、お母さんに頼み亀有にある0000病院にしてもらった。そこで毎日点滴を打った。そして、ベッドで寝転がり、ネットでいろいろ見ているうちに「あの男」を見つけた。
お母さんはいい人だけど、とても私のことを理解していない。お母さんから見れば、私はただの平凡な女の子でしかない。でも私のアタマの中には別の宇宙があって、ヘンな星たちが旋回している。見たこともないヘンな怪物たちが毎晩叫んでいる。私の知らない未知の力が私の内部で暴れたくてもがいているのだ。彼らが、私に勝手に、聞いたこともない物語を私の耳元で囁いている。その物語を実践する為に「外に出ろ」と言っている。私と一緒に、新しい世界をつくりたがっている。その世界では私が女かどうかもわからない。彼らにはそんなこともどうでもいいみたいだ。
私は病院なんて大嫌い。特に夜は気味が悪い。私は暇つぶしに一度夜中に迷ったフリをして、点滴を引きづったままエレベーターに乗り、病院の地下に降りた事がある。そして、大きな病院だからか霊安室があって、その前に出てしまった。この大きな部屋の中に何があるのか? 私は知っている。ニュースで見た事がある。大きなプールがあって、いろんな死体が浮かんでいるのだ。ブヨブヨと。私は「アーっ!」と小さく叫んだ。その光景が目に浮かんだからだ。ゾッとした。私のからだが硬直している。私はバランスを失いそのまま床に倒れてしまった。そして、倒れた時に点滴の瓶がガシャンと大きな音を立てて割れた。その音を聞きつけた当直の看護婦さんが私の方に走ってきた。私はそのまま気を失った。
私は、最近特に奇妙な夢を続けて見て、夜中に汗びっしょりで飛び起きるようになった。霊安室の体験は私のトラウマになっている。そのせいに違いない、奇妙な夢を見る回数がどんどん増えている。こわいよ。嫌だよ。夢の意味がわからないから。私はその意味を知りたい。でもわからない。わからない夢ばかりを見てると、記憶も失くして私が私の過去から切断された気がするし、確実に自分が誰なのかわからなくなっていく。私は私じゃなくて、自分でも理解できない夢のための単なる器になってしまうからだ。私は器なんかじゃないよ。私は私だよ。私はそんな夢なんかいらない。でも、夢に乗っ取られ、私が私じゃなくなっていく。一体なぜなの? なぜこんな酷い目に遭うの? 私はおかしいのかも知れない。私の精神が壊れた気がする。とにかく、眠れなくなった。
もしかしたら私はこのまま死ぬの? 或いは、変な夢のせいで私は狂うの? 死ぬのはイヤだ。狂うのもイヤだ。だから、私は夜がこわくなった。眠れないし、眠ればすぐにまた夢の続きを見るから。そんな夢はもう見たくない。苦しいのはそのためだ。どうすればいいのかわからない。それがわかれば私は助かる。
誰か、私を、助けて!
私は心の中で何度も叫んだ。
助けて! 助けて!
そして、泣いた。叫んで、泣いた。
でももう疲れたよ。泣くのも叫ぶのも疲れた。誰も来てくれない。お母さんも、友だちも、男たちも、誰も私のことを理解してくれない。そんな人たちなんて、私からすれば存在しないのと同じなんだ。
何だか、私は、世界でたった一人ぼっちだ。何でこんなことになったの? お父さんが生きていたらこんなことは決して起きない。お父さんが生きている時は私は安心していられた。そんな夢なんて見なかった。毎日が楽しかった。私は大きな門がある美しいお城でお父さんに守られて暮らしていたお姫さまのようなものだった。それが、突然お城がなくなったのだ。門もどこかに消えた。私は路上に一人。誰もいない。一瞬にしてすべてが消えた。ウソのように。世界ってこんなにもろいものなの? たった一人の人間がこの世から消えただけなのに。こんなことになるなんて。
お父さんはどちらかというと、ブスの男だったかも知れない。私はお母さんに似て美人だと言われている。からだもキレイだと自分でも思う。前から見てもいいし、鏡で後ろ姿を見てもいい。横から見た胸の形は飛び切りキレイだし、私は特に斜め横から見た背中の曲線が大好きだ。見ていて飽きない。でも人間は心のエンジンを失ってしまえば、皮膚の表面の美しさなんて何の価値もなくなる。エンジンがなければ走れないし、生きられない。皮膚の表面だけで生きてる女なんてどこにもいないんだよ。誰だって心の生活が必要なんだよ。人間は心で生きてるからだ。そんなことは14才の私にだってわかる。心が満たされてなければ、どんな美人だって一瞬にしてゴミ箱行きだ。何の価値もない。ボロ屑。単なる肉のかたまり。醜いだけ。ゴミ箱に捨てられるのはまだ早い。私はまだとても若いんだよ。たった14歳だよ。私はお父さんに会いたい。お父さんはブスの男だったかも知れないけど、魅力があった。私はお父さんが大好きだった。
もちろん、ネットで見つけた男が実際どれほどの男かは会ってみなければわからない。若い女のからだが欲しいだけのつまらない男かも知れない。でも、外れたとしても、自分から動いただけの価値はあるはずだ。ひどい目に遭う心配もある。男に何をされるかわからない。でも、どんな目にあっても、いま私の周りにいる男たちよりはましだ。動かないよりはましだ。動けば何かが変わる。きっと新しく始まることがある。
学校の先生たちもまるで頼りにならないけど、浩介や健太もひどいものだ。何の頼りにもならない。いくら相談しても、私の悩みを理解してくれない。誰にも私が見る夢の意味がわからない。いま私のような女が何を考えいるかなんて、まるで関心がない。あいつらはセックスだけが目当てで、終わったらサッパリしましたという顔をしてすぐに帰ってしまう。何という冷たい奴らだ。私の話しは真剣に聞かない。聞いているフリだけ。あとは女に甘えることや、女を支配することしか考えていない。それも努力しないで女が手に入ると思い込んでいる。一度寝たらそれで女は自分のものだと考えたがっている。まるでバカだ。こんな世の中になったのに、そんな考えの男たちがまだ生きてるなんて信じられない。間抜けな男たち。古くさい男たち。ほっておいても女が男を好きになったり、男が女を支配できるなんて、とんでもない間違いだ。そんなことはいまの時代ではもうなくなったのだ。男の役割なんて、これからはせいぜい女のための案内人になることしかない。でも浩介や健太は何も勉強してないからそれも出来ない。世界がいまどうなっているかなんて何も知らない。何の価値もない男たち。女を支配するなんて、そんなことはもう諦めた方がいい。
世の中の男は女を理解することから始め直す必要があるのだ。女が何を考えているかを理解できて、何を悩んでいるのかもわかって、それではじめて一人前の男に戻れる。男は女を新しい世界に案内できなければダメなのだ。だから男はいろんなことを知ってる必要がある。好きになった女がどこに行きたがってるのか、大体でもわからないとダメだ。それではじめて女に尊敬されるようになる。いま男に必要なのは、女から尊敬をかち取ることだ。おそらく、お父さんがそうだったように。お父さんは、女たちに尊敬されていたに違いない。私も男を尊敬したい。私の心の真黒な闇を理解してくれたら、私もその男を尊敬できる。それではじめて私も男を好きになれる。
お父さんはやさしかったけど、ほとんど仕事で海外に行っていた。大体、3ヶ月に一度1週間から10日家に帰って来た。帰ってくると、私にいろんな話しをしてくれた。そして、口癖のように私に本を沢山読めと言って本屋から本を買ってきた。お陰で私の部屋の本棚は一杯で、私は大の読書好きになった。でも、海外に行くと、家にいる時とは雰囲気がまるで違う写真をよく母に送ってきた。顔は同じでも、まったく別人だ。異国の風景のなかで笑顔をムリにつくっている。でも心は笑ってなんかいない。
お父さんが家に帰ってくるたびに、私は注意深く観察した。お父さんが好きだから、どんな変化も見逃さない。お母さんはお人好しだから、お父さんがお母さんにニッコリするともうそれだけで騙されてしまう。本当は何かを感じているのに、疑うことをやめてしまう。お母さんは単なる善人で、善人は疑うことを悪だと思い込んでいる。私は違う。そんな笑顔では騙されない。私は徹底的に疑う。疑いこそ、私が自分のアタマで考えていることの証しで、相手に対する誠実さだ。相手と徹底的につき合うという気持ちがあるからだ。だから少しあぶない質問もしてみる。
「お父さんは帰ってくる度に違う感じだし、匂いも違うみたい。なぜなの?」
「そうか、どんな匂いだ? 毎日いろんな酒の飲み過ぎだから酒の匂いだろう」
お父さんは、いつもそんな事を言ってとぼけてみせる。
「わからないけど。お母さんはどう思う? 目つきも変わってきたわ。悪い人みたい」
こういう時、お母さんは「そうかしら。カオリの気のせいよ」と言うだけで、私の話しに乗ってこない。何も気づかないというふりをしている。お父さんはニコニコして新聞を読んでいるだけ。でも、お父さんには女の気配がいつもあった。それも一人じゃない。いろんな女たちだ。お父さんの仕事もあの男と同じで、貿易商だった。でも、貿易って、扱っていたものは一体何だ? まさか、商品は女?
私は、お父さんは海外に恋人もいて、何か悪いことをしているに違いないと直感した。悪いこと? 悪いことって何だろう? お母さん以外に女をもつこと。人に危害を加えること。人間をダメにする発明をすること。戦争をすること。こんなふつうの犯罪ならわかりやすいけど。たとえば新しい世界をつくることは、古い世界からすれば悪いことだ。少なくても古い世界の人間には理解できないことだ。お父さんのほんとうの仕事は何だったのか? 最近は日本の女が海外で人気があるらしい。浩介や健太が言っていた。それで、日本の女たちをドバイとかどこかの中東の高級風俗に売り飛ばしていたのか? でも、それならただの女さらいだ。そんな仕事ならまるで新しくない。
でも、お父さんは新しい世界をつくることに関わっていたに違いないのだ。だからお父さんはいつも緊張に震えて、目もあんなに輝いていた。女たちもそれに惹かれてついて行ったに違いない。女たちもお父さんの背後の何か輝くものを見ていたのだ。
お父さんの仕事が女をだます仕事で、悪いことだとして、一体何だろう? 私にはまるでわからない。でも、新しい世界をつくる仕事だ。お父さんから新しい世界が始まっていたのだ。だから、私はお父さんが好きだった。でも死んでしまった。もう私の目の前に現れることはない。二度とお父さんに触れる事が出来ない。抱き上げてももらえない。ほっぺたにキスもしてもらえない。こんなに悲しい気持ちは生まれてはじめて。お父さんが死んでから、私の心の闇が大きく成長をはじめた。その闇に怪物たちが現れる。それを誰も止めることができない。
2
それにしても、この男にも、お父さんと同じような雰囲気がある。なぜだろう? 「世界に明日は来ない。つくらない限り。そのためには昨日をこわす必要がある。時間という怪物は空っぽにするために存在するのだ。人に頼んでもムダとわかったから自分でやることにした。私にはできる。世界をひっくり返せる。そんなことは簡単だ。但し、そのために私には若い女が必要になった。私はいま17歳の恋人を募集中。充分な謝礼あり」なんて、全くわけのわからないことをネットに書いている。世界を変えることと17歳の女と、一体何の関係があるんだ? 関係なんて何もないよ。一体この男は何だ? この男に何ができるのか? 謎に満ちている。何だか自信たっぷりだ。面白いやつ。変なやつ。とても怪しい。
でも、こういうおかしな事を言う男が楽しい。お父さんもお酒に酔うと、私やお母さんや親戚の人たちをつかまえて、「明日があるのが不思議だって思うでしょ?」なんて聞いていた。「新しい世界なんて簡単につくれる」とも言っていた。この男と同じだ。だから誰も真剣にお父さんの話しを聞いていなかった。お父さんは周囲の人たちから酔うとおかしくなる男、と思われていた。
私だけだ。お父さんを信じていたのは。私には難しいことはわからない。でもお父さんの感覚は信じられる。明日はつくらないと存在しないと、私だって思う。私たちが毎朝目が覚めて明日を今日として迎えることができるのも、きっと誰かがどこかで昨日をこわしているからだ。それは人が毎日死ぬことにも関係している。赤ちゃんが毎日生まれてくることにも関係している。つまり、死ぬ者がいなくなれば赤ちゃんも生まれなくなるのだ。そうに違いないと私は思う。世界は平坦な起伏なんかで成立していない。もっとでこぼこで、もっと乱暴で、空間も時間ももっと複雑に入り組んでいて、美しいドラマと残酷なドラマで満ちている。だから楽しいのだ。だから思いがけないことが世界で起きるのだ。何でこんな単純なことを他の人は感じないの?
この男もお父さんと同じことを言っている。何か面白い秘密を握っているに違いない。とんでもないことをやっている可能性がある。早く会いたい。もっと知りたい。
でも、最大の問題は、私がまだ14歳になったばかりだということだ。私はまだ14歳の中学生にすぎない。化粧して服を変えれば18歳に見えるだろうか? 少なくとも16歳には見えるはずだ。いま世間の男たちが若い女子に魅力を感じていることは、テレビや雑誌で私も知っている。この男が私を気に入れば、私のからだも求めるに違いない。だって、「恋人求む」って書いてある。この男は女が欲しいのだ。恋人ならきれいごとのつき合いじゃ済まない。もっとドロドロだ。セックスも大事だ。私だって本当はセックスが好きだ。それには自信がある。生理もとっくにはじまったし、私のからだの成長は早い。男たちの反応を見ても、私に女の魅力があることはよくわかっている。お母さんにはもちろん内緒だけど、私だっていろんなことを試している。胸が少し透けて見える薄いシャツを着て短いスカートをひらひらさせて新宿や渋谷の街を歩くと、男たちがじっと私を見ている。その視線は私とやりたがっているオスの目だ。私のからだは毎日オスの目にさらさられてキレイになっている。乳房もお尻も、同じ年齢の子に比べれば大きい。腰も引き締まっている。肌も真っ白。お母さんに似て私は美人だ。男をその気にさせる女だとか、目つきと唇がセクシーだとか、その魅力は体重が減った今も変わらないと、退屈なボーイフレンドたちも保証してくれている。
だから問題はあの男だ。うまく騙せるだろうか? 私のからだを「欲しい」と言うだろうか? 「欲しい」と言って欲しい。でも、何であの男は18歳の女にこだわるの? それがわからない。私が14歳なのがバレて子供扱いされるのは絶対にイヤだ。私はもう子供じゃない。少なくても心は、そこらの女たちよりはるかに大人だ。
あと、問題がもう一つ。私が18歳以下の女子で、私がこの男とセックスしていることが警察にバレたらどうなるのかしら? ネットで調べたら、私が罪になることはないけど男は児童虐待とか淫行とかの罪になる。でも、バレなければいいわけだ。私がよっぽどひどい目にあったりした場合は別かも知れないけど、私が警察に訴えるとかはあり得ない。男も自分から言うはずがない。この男だって、大人なんだから当然この問題の対策は考えてあるはずだ。とにかく、私はお父さんの死を通して「絶望」を学んだ。苦しかった分だけ、知恵もついて、別の世界に対する感覚も身についた。こんな私から男が逃げ出すなんて、耐えられない。男が逃げ出したら、私はまだ新しい世界の住人に相応しくないと宣告されたのと同じだ。私は男に振られたことはない。沢山のボーイフレンドを振ってきたのは私の方だ。私は小さな女王さまだ。女王さまにはプライドがある。
もし、男が私を子供扱いして私の事を笑ったら、それでも耐えられるだろうか? もちろん、この男が見当違いの男だった場合は、私もすぐに別の男を捜す必要がある。バカとつき合ってこっちが傷ついている暇なんてないのだ。私は急いでいる。私の心の闇がどんどん大きくなっている。早くしないと、私は闇にすっぽり覆われて、それで私の人生はおしまい。もう闇から出られない。どうしよう? うまくやる必要がある。
あの男をうまく扱えるかどうかで、私の運命が決まるのだ。これは重要な仕事だ。私はすごく緊張してきた。でも、久しぶりの緊張で、楽しい。そう、私は今すごく楽しくて、生き返りつつあるのだ。私のからだのセンサーたちも甦ってきたみたい。センサーたちがブルブルと震え始めた。急に食欲も出てきた。お腹が空いた。お腹が空いたのを感じるなんて、本当に久しぶり。何だか飛び切り嬉しくなってきた。あぁ、マンゴーを、お風呂につかって一日中死ぬほど食べたい。20個も30個も食べたい。マンゴーは私の一番好きな食べ物だ。私はあの男との出会いを準備する事で元気を回復し、食べるようになり、体力がつき、退院できた。病院にはまる1ヶ月入院してたわけだけど、退院の時の体重は42キロになっていた。6キロも増えたのだ。
第2章 男の場合
1
僕の名前は篠原ヒロシ。48才。
僕は恵子が死んでいたことを知らなかった。懐かしく辛い思い出だ。ナツコは高校2年生の時の恋人で、同じクラスだった。ナツコが23才の若さで死んだことを、40才になった時に高校の同級生だった青木公一からはじめて聞いた。彼から送られてきた校友会のクラス名簿で「0000ナツコ 逝去」という記述を発見し、地面がひっくり返ったようなショックを受けた。僕の高校は京都府の舞鶴市にあり男女共学の進学校だった。僕はクラス名簿をカバンに入れただけで、すぐに東京駅から新幹線に乗り、京都駅から山陰線に乗り換え、現在も舞鶴市に住む青木に会いに行った。彼は学年で常に成績一番の政治家志望の秀才で、東大法学部に入学したものの、卒業後は家の事情でエリートコースを放棄して実家の和菓子屋を継いでいた。仲が良かった彼から僕に一度だけ手紙が来て、その頃の彼の経過が書いてあった。彼に会うのも高校卒業以来だ。あれから30年が経ち、お互いに年を取っていた。僕は事情があって若くして総白髪になっていたが、彼の頭も半分が白髪になっていた。僕が挨拶もそこそこに彼にナツコの死について尋ねると、彼はにわかには信じがたいという目つきをして僕に言った。
「えー、お前知らなかったのか? 嘘だろう?」
青木はほんとうに驚いた様子だった。
「だってあいつはお前の恋人だったし、一番親しかったのはお前じゃないか」
「そうかも知れないけど。でも、知らなかった」
僕は大学を最初の1年で中退し、その後は海外に住むようになっていたので青木も含め友人たちとの連絡も途絶え、ナツコがその後どうしているかも本当に何も知らなかったのだ。彼から一度だけ来た手紙にも、書かれていたのは当時の彼の事だけでナツコについては何も書かれていなかった。
「あいつが23歳の時だよ。病死。白血病だった。もちろん俺は葬式に行ったよ。当時の友人たちはみんな来た。お前だけ来なかった。子供が一人いたよ。5才の可愛い女の子だ。夫はいなかった。お前の子じゃなかったのか? もっぱらお前の子という噂で、俺たちもそう思っていたけど」
大変な驚きだ。子供がいたなんて話しも何も知らない。調べてみる必要がある。僕に内緒で生んだのか? まさかそれはないだろう。5才だとすればナツコの18才の時の子だ。1年違う。僕たちはその時はもう別れていたはずだ。しかし、彼女を最後に抱いたのはいつだったのか? はっきりとは思い出せない。それにしても、23才で死んだなんて。つき合っていた17才の時からわずか6年後のことじゃないか。何ということだ。白血病? ウソだろう? 病気がちだったわけじゃないし、健康ではちきれそうな女子だった。とても信じられない。
ナツコの事は、僕の青春の最大の過ちだった。彼女は文学少女で、声楽家を目指していた。東京の音楽大学に進学するつもりだった。女としても、人間としても、僕よりずっと早熟だった。僕は、要するに、彼女の早熟さに呑み込まれてしまった。セックスでも、彼女は信じられないほど積極的だった。当時の僕は、肉体的なことより抽象的なことを求めていたので、僕は彼女について行けなかった。僕には彼女が美しい目をしていて、アタマがよく、キレイなからだをしているという、それだけでもう充分だった。だから僕は彼女を眺めているのが好きで、抱いている時間は長くはなかった。射精も一回で充分だった。しかし、彼女はそうではなかった。17才なのに大人の女と変わらない。貪欲だった。何度も求めた。一度はじまると離れるのをいやがった。それで、僕は辛くなり、自分から言い出して、彼女と別れてしまった。付き合ってから半年後だ。そして、大して好きでもない別の女の子を恋人にして、わざと彼女にその子と放課後の体育館の更衣室で抱き合っているところを見せたのだ。彼女はもの凄く驚いた顔をしていた。
しかし、ナツコと別れた後になって、大変な事になった。僕にも大学に入ってからいろいろ問題が起き、悩むようになり、人生について真剣に考えるようになった。彼女には別れた手前もう相談もできない。それで、日本にいるのが嫌になり、アメリカのボストンに飛び出した。ボストンに母の親類がいて、ホームステイできたからだ。しかし、何かあるたびに彼女を思い出し、いま自分が考えていることをあの当時すでに彼女が考えていたことがわかった。そういえば、彼女はいつも本を持っていて、「この本読んだ?」とか、「あの映画が面白いわ」とか、「アフリカで毎日たくさんの子供たちが死んでるのを知ってる?」とか、「日本はつまらないわね」とか、よく言っていた。それで、ますます彼女が恋しくなり、何度も思った。振った女を、後になってつよく思う。バカな話しだ。しかも23才で死んだという話を聞くまで、彼女がどこかで生きていると思っていた。いざとなれば会いに行けるし、実際に会いに行きたいと思い続けていた。それが僕の生きる希望の大きな部分を占めていた。僕の心の中では、彼女を好きだという思いが渦を巻いていた。
それなのに。僕の思いはナツコの実体に触れることなく、この世をむなしく旋回していたわけだ。彼女はもうとっくにこの世の存在ではなくなっていたのだ。何ということだ。信じられない。僕は、48才にもなった最近になって人生について少しだけわかるようになった。やっと余裕が出てきたのか。そして、やり直しできるなら、17才のあの日の自分に戻りたいと痛切に願うようになった。
ナツコに対する思いが日に日につよくなるのはなぜだろう。いまやっている脳の実験の影響なのか? 危ない実験だから充分にあり得ることだ。或いは、本当に彼女が霊魂になって僕を呼んでいるのか? 或いは彼女の子供のせいか? 彼女の子供は生きているのか? 生きているならどこにいるのか? その子供は果たして僕の子なのか? 名前も何も知らない。一度会って確認する必要がある。彼女の実家を訪ねればすぐにわかるのではないか。
あの日。冬休みに入ったばかりの寒い日だった。僕の高校は、舞鶴湾の近くにあった。朝から雪がふっていた。ナツコとのはじめてのデートで、一緒にお寺見物を兼ねて京都市内にスケートに行った日曜日だ。僕は有頂天だった。彼女も興奮している様子で、顔が上気していた。二人で始発の電車に乗り、僕が隣に座る彼女の耳元で「好きだ」と言ったら、彼女も「わたしも好き」と言った。嬉しくてからだが熱くなった。行きも帰りも電車がすごく混んでいて、僕ははじめて彼女のからだに直接触れた。スケートでも手をつなぎ、お寺回りでもずっと手をつないでいた。彼女は本当に驚くほど物知りで、銀閣寺に行った時には「もっと素敵なお寺が近くにあるから行ってみない?」と誘われ、法然院という小さな禅寺に連れて行かれた。確かに小さいお寺だけど、簡素さとその独特な美しさに驚いた。それにしてもナツコはどうしてこんなお寺まで知っているのだろう? 事前に京都案内を本屋で買って読んだ限りでは、法然院についての紹介は何もなかった。初めて聞く名前だ。彼女はどうやってこの寺を知ったのだろう? 彼女の説明では、このお寺は日本人よりも外国人によく知られているらしい。そう言えば、僕がこの寺で出会った数人の参拝者も皆外国人だった。帰りは夜になり、駅から家まで歩いて送り、彼女の家の門の前で最初に抱き合った。記念の日だ。キスをした。熱いくちびるだった。胸に触れた。彼女の乳房は大きくてやわらかかった。彼女の口も、胸も、その感触はいまでも鮮明に残っている。その時彼女が着ていたビンクのセーターもよく覚えている。
その日以来、冬休みの間中、ナツコの家か僕の家で、毎日会った。毎日一緒に勉強し、親の目を盗んで抱き合った。そしてどんどん深入りしていく。まさに青春の日々。3学期がはじまって関係はさらにエスカレートし、片時も離れたくないという関係になり、学校の帰りも手をつないで二人で帰った。その頃は高校生の熱愛カップルは地方都市ではめずらしかったので、学校中の評判になっていた。
そして、3学期も終わりに近づいた或る日、ナツコは「あなたの子供が欲しい」と突然言い出した。それまで彼女は避妊薬を飲んでいた。でも、もうクスリを飲むのをやめたいと言う。
「あなたの子供が欲しいの。いいよね?」
彼女は真剣な目をしていた。
「え? いま何て言ったの?」
彼女が祈るような顔をして僕を見ている。
「子供が欲しいの」
「僕たちの子供?」
「うん。私、落ち着きたいの。毎日どんどん楽しくなるけど、でも同じだけどんどん不安になるの」
「えっ、不安なの?」
「とっても」
「どんな?」
「ミシミシと音がして、からだも心も壊れる感じ。痛くてたまらない。つらいの。耐えられないの」
その日から二人の気持ちのすれ違いがはじまった。単なる少年に過ぎなかった僕には、正直何のことかわからなかった。女は何でそうなるのか? 僕は落ち着きたいのではなく、冒険をしたかった。同じ思いでいることが愛の証しと思い込んでいたので、僕にはナツコの気持ちが理解できなかった。彼女も音楽家になり世界を飛び回りたいというつよい希望を持っていたはずだ。アフリカで子供たちのために働きたいとも言っていた。それはどうなったんだ?
「ナツコ、よく聞いて。高校2年生で子供なんて、早いよ。親になるなんて、想像もできない。僕たちにはその前にやることがたくさんあるじゃないか」
「でも、私は子供が欲しい」
僕が「理解できない」と言った時、ナツコはとても悲しそうな顔をした。つき合ってから彼女のこんな沈んだ顔を見るのははじめてだった。彼女の目から大粒の涙が溢れ出している。でも、僕はただ彼女には自分と同じ気持ちでいて欲しいと思った。17才なりに、世界に対して燃えているつもりだった。子供を持つなんて、親になるなんて、世界への窓が一挙に閉じる気がした。とんでもない。僕は安定した場所に閉じこもりたいのではない。世界に出たいのだ。そう思っていた。男と女は、ある時期を過ぎると、別々の立場で、別々の思いでいた方がいいことがある。その方が二人の関係がうまく行くことがある。そんな大人の知恵は当時は思いもよらなかった。今なら喜んで「うん。わかったよ。どうしても欲しいなら」と言えただろうに。高校生カップルで、子供が出来ても、それで行動が制限されるわけではない。いくらでも工夫の仕方はあったのだ。
2
僕が「この女にしよう」と決めたのは、この女がナツコに一番似ていたからだ。顔も、からだつきもそっくりだった。
「18才の恋人求む。当方48才。貿易商。新しい世界をつくりたい。私にはその力がある。しかし、必要な相棒がいない。条件は写真の女に似ていること。私と話しが合うこと。充分な謝礼あり。詳しくは面談で」という、僕の写真つきの文面でネットの複数の出会い系サイトに書き込みを入れたら、1週間で全国から100人を超える応募があった。その数字に正直驚いた。100人も! なぜ? 世の中はいま一体どうなっているんだ? 何で若い女の子が僕のような中年男に関心があるんだ? 応募があってもせいぜい数人かと思っていた。世の中には変わった女も少しはいるだろうということで。ゼロならまた投稿すればいいと思っていた。それが100人以上だ。最近の女たちは世界に飽きているのか? 僕のような男にも興味があるのか? もちろん全部は信用できない。金目当ても多いだろうし、暴力団が裏にいるとか、危ないケースが混じっている可能性もある。しかし、この女を選んで正解だった。
この女を選んだのは、ナツコに似ていたのが一番の理由だが、ネットのオンラインでの僕の質問にびっくりするような答えをしたからだ。「毎日、どんな気持ちで生きてるの?」という質問に、「絶望」とポツリと答えた。「えっ。絶望? やりたいことはあるの? あるなら何?」に対しては、「お父さんを探したい。まだ生きてるかも知れない。ダメなら私が生きている世界は大嫌いだから、別の世界に引っ越したい」だった。この女はいま流行りの美少女系だ。可愛い子だ。ナツコをそのまま現代に引っ張って来た感じ。しかし、化粧なし。目の周りはかなり黒ずみ、沈んだ暗い顔だ。ただ、僕を一度だけチラッと見た時の視線は鋭くて驚いた。子供の目ではない。冷静で、冷たく、相手の心の奥まで見抜くような目だ。
最初に会った日、改めてカオリと自己紹介していたが、本当にウソみたいにナツコそっくりで驚いた。顔やからだだけではなく、特にしゃべっている時の相手の見つめ方が。ナツコの目つきに僕はいつも誘いこまれていた。カオリの目つきもいい。相手を引き込む力がある。それは単に男を誘う女の目つきではない。何かを鋭く観察する時の目だ。
最初はカオリが適当なことを言っていると思いいい加減に話しを合わせていたが、聞いているうちにそうではないことがわかった。彼女が言うことは、この年頃の女からすればかなり異様だ。若いのに本気で世界に絶望している。毎晩おかしな夢を見て眠れないと言う。夢の内容を聞いたら、注目すべきポイントがいくつもある。僕としても仕事がら興味深い。精神科医も喜びそうな内容だ。
最後に、カオリは「ほんとうは、わたしは18才じゃなくて14才だけど、それでもいいですか?」と心配そうに聞いたので、「えっ」と思ったけれど「いいですよ」と丁寧に答えておいた。
「僕の方にも一つ訂正があるよ」
「何ですか?」
「実は、僕に必要なのは17才の子で、18才じゃないんだ」
「でも、18才の恋人を求むって」
「それは対策でね。17才の恋人求むなんて書いたら日本では法律に触れる事になるからだよ」
納得したかどうかはわからないが、彼女は黙って聞いていた。いずれにしても、とても14才に見えない。すごく早熟な子なのだ。僕には17歳のナツコが必要だが、どうせ彼女との関係を正確に再現できるわけではない。それに似たことがやれればいいのだ。17才よりもっと若いなら、実はその方がいい。脳は、幼児期は使い物にならずにダメだが、10歳以上なら若いほどいい。神経細胞が柔軟に新しい刺激に反応するからだ。実験の成果をうまく生かせば、ナツコとの関係に似たことをやれるはず。場合によっては、「それ以上の関係」に化ける可能性だってある。つまり、カオリがナツコ以上のナツコになることもあり得る。僕はそう考えている。ナツコは途中で人生の停止を強いられてしまった女だ。その分、僕の人生も中断している。その先がどうなるのか、ぜひともやってみたい。ナツコが生きていたら、一体どんな女になっていただろうか? 僕と人生を一緒に歩んでいたら、それはどんな生活だろうか?
少なくとも、現在の僕は昔の17才の時のひ弱な少年ではない。女が何を言い出しても、もう驚かない。おそらく実験を通して面白いことがわかるだろう。僕はこの女とならやれる気がした。この女はアタマも良く聡明そうだ。理解力も高く、意志も強そうだ。意志が強くないとこの実験はつとまらない。或る程度実験が進行すると整理できないカオスが一挙に脳に噴き出す。それに慌てず、根気よく付き合える落ち着いた精神力が必要なのだ。
これまで2人の女で試したが、2人とも途中で根を上げてダメだった。カオリは3人目。話しは聞いてみなければわからないものだ。カオリは見かけは最近はどこにでもいる普通の可愛い女の子に過ぎない。まだ14才。しかし、アタマの中はまるで違うようだ。
「私のアタマの中には古代の邪悪な怪物が住んでいるの。私に触ると危険です。火傷します。咬まれて死にます。ふつうの男は退屈。もう飽き飽きしたの」
カオリが最初にOnlineの面談でそう言った時、ものすごく驚いた。心が震えた。こんな女子が世間に埋もれている。つまり、彼女の存在は世界はまだこれから面白くなるということの証しだ。14才? 若すぎる? しかし年齢なんて関係ない。僕をその気にさせるかどうかだけが重要だ。僕は彼女が気に入った。感動したと言ってもいい。この女にはその才能がありそうだ。
第3章 脳さらい
1
男の要求を聞いて私は驚いた。
朝10時に東京駅の銀の鈴という場所で待ち合わせた後、品川駅前の高級ホテルに連れて行かれた。「触らないで!」と私は脅しておいたけど、この男には効かなかった。部屋に入ると男は私を簡単に手に入れた。私のからだに触り、抱きしめた。女に対する慣れたやり方だ。あまり自然なので抵抗できなかった。このホテルが東京の滞在先だという。確かに金持ちが泊まるホテルだ。男は私を裸にして一日中無言で私とやりまくった。もちろんそれも予想していたので何ともない。かえって男が私に性欲を感じる事がわかり、まずは一安心。私も自分が知っているサービスをいくつかやってみた。嬉しそうにしていたから、私のテクニックも通用するのだ。男の注文は全部聞いた。変態じゃなかった。普通の範囲。高校の制服を用意していて着て欲しいとか、ちょっと少女趣味があるだけ。まぁ、それは17歳の女が欲しかったのだから当たり前か。それにしても、この男は制服の私に興奮するのだ。私が制服に着替えるともっと積極的になった。男は自分で制服を都合したの? でも、どこで? だって随分古いタイプの制服だから。今時こんな制服は売ってないと思う。おかしかった。いまでは完全に流行遅れ。私は何も言わなかったけど。
こんなセックスは何でもない。寝たからといって私は汚れない。私は何も変わらない。でも、本当の事を言うと一つだけ変わったことがあった。私はかなり感じたのだ。2年ぶり? 声もちょっと出した。つまり、長い間の不感症から解放された。それと、イヤなことは何もされなかったので私は少しもこの男を警戒しなかった。雰囲気がお父さんに似ている気がしたから。でもそれで信用されたみたいだ。
次の日に本当の目的を打ち明けられた。初めは私から聞いてみた。無口みたいなので、私が黙ってるとずっとこの男も黙ってる。昨日は男はずっと黙ってた。沈黙は怖い。このままだと私はまた自分の心の闇に一人で彷徨ってしまう。
「あなたのしたいことって、まさかこれだけ? 目的は私のからだ?」
男がやっと口を開いた。別に無口じゃないみたいだ。
「もちろん、違う。昨日は男と女がふつうにやることをやってみて、君を試した。君についてもっと知りたいからね」
「何がわかったの?」
「君が金目当ての女ではないこと」
「どうしてわかるの?」
「お金のことを何も聞かない」
「お金なんて興味ない。それから?」
「君は、ずっと僕の様子を見てるね。なぜ?」
「別に。あなたの顔が珍しいから」
実は私は骨相学が趣味。お父さんが海外から送ってくる写真には、中東だと思うけどアラブ系のいろんな男と女の顔があった。ヒマだからよく見ていた。そして、顔には驚くほどいろんな種類や特徴がある事を理解した。民族の違いはわかりやすい。それより面白いのは、「あれっ、この顔ってお魚系?」とか、「いや動物系?」とか、人間とは違う顔の系列もある事だ。私は、動物系の中の「鳥系」が特に好きになった。お父さんが買ってくれた進化論の本でも読んだけど、海辺で生まれた人間の祖先には魚系が多く、山で生まれた人間の祖先には動物系が多いらしい。なるほど。わかりやすい。私も納得できる。目・鼻・口・耳の形の違いもすごく面白い。この種の差も入れたら本当に人間の顔は千差万別。興味は尽きない。だから骨相学の本を沢山読むようになっていた。私の観察では、この男はちょっと複雑。少なくても純粋な日本人じゃなさそうだ。
「僕の顔が珍しいの? こんなのよくある顔じゃないか」
「珍しい方だと思う。あなたって、ほんとに日本人?」
「えっ? そうだけど」
「ふーん」
私は詳しく男の顔を見た。前からだけでなく横からも。上からも下からも。私が好奇心丸出しで観察を始めたからか、男が笑い出した。
「どう? 何かわかった? すごく熱心だね。知っている人に似ているのかな?」
「いいえ、誰にも似てないわ。ただ何だか懐かしいと思って」
「懐かしい? 僕の顔が? 君は確かに変わってるね」
「私は誰の顔を見ても懐かしい感じがするの」
でも、本当のところ、私はどうして人間の顔を見てると懐かしい気がするのか? 考えてみた。そしてもっと男の観察を続けた。男が不思議そうに私を見ている。でも時計も見た。少し困ったような顔だ。私は瞬間「もうやめよう」と思った。私はハマり出すと止まらなくなる性質だから。男にイヤな顔をされて「君を選ぶのはやめた」なんて言い出されたら、大変だ。
「ゴメンなさい、もうやめた。質問を続けて。それから私の事で何がわかったの?」
「タフな子だ。年齢の割りに上手だね。本当に14才? 正直、驚いたよ」
「セックスのこと? それならいまの私の学校の女子たちと同じよ。皆やってるし、テクを磨くのも熱心よ。もちろん親には秘密にしてるけど」
私は、ボーイフレンドたちから学校の女子についてもいろんな情報を聞いている。男好きが多いし、私よりずっと遊んでいる女子は沢山いる。
「私もそうだけど、同じ年の男は退屈って言う女子が増えてるわ」
「へぇ、そうなの?」
「私のお母さんの時代とは違うのよ。いろんな事を知ってるわ。若い男たちはへたが多いって、クラスの女子たちも言ってるわ。それに今の女はセックスを過剰評価してないわ。神秘化もしないし、変に畏れる事もない。もちろん過剰な期待もしない。だってセックスと愛はまるで別だってよく理解してるから。だからサービスなんて大した技術じゃない。簡単よね。ペニスをしゃぶる時は舌と唇の動きを膣の動きに似せるとか、膣の鍛え方も沢山あるとかね。自慢にならない」
「君は面白いね」
「それより、あなたの目的は何? 早く教えて」
男は、隠す風でもなく、あっさり答えた。カバンから書類を取り出し、チラッと目を通し、それから私の顔を見て言った。
「君の脳を借りたい」
「えっ? 何て言ったの?」
「君の一番大事な部分とコンタクトしたい」
「どういうこと?」
「男と女のほんとうのつき合いをしたい」
「はぁ? 全然、何のことかわからない」
私は本当に何のことか理解できなかった。異星人との会話が始まったみたいだ。
「一番深いところで、何も隠せないところで、君とつき合いたい。心と心を結んでみたい」
「驚いた。真剣に言ってるの? からかってるのね?」
「真剣だよ」
たしかに、男は真剣だ。でも、一体何の事かしら? 脳を借りる? 心と心だって。
「だって、私はまだ14才よ。心と心って、愛のこと? 私たちって、昨日会ったばかりじゃない」
「年齢は関係ない。いつ会ったかも関係ない」
「やっぱり、あなたは変ね。まぁ、変だと思ったから興味があって来たわけだけど」
「僕はいたって普通だよ」
男は冷静で、ほんとうに普通に喋っているだけみたいだ。一体、この男は、何? 異星人ではないとすれば?
「あなたはロマンチスト? それとも新手の変態? そんなこと初めて聞いた。でも、あなたが真剣ならそれも素敵かも知れない」
私は好奇心が旺盛だがら、男の話しにゾクゾクする部分はある。好奇心をくすぐられとなぜ人間はこうも楽しい気分になるのか? 私はいま楽しい気分になっている。頑張って冒険してよかったのかも知れない。
「でも、どうするの?」
「君の脳に僕の愛を挿入する」
「はぁ? あなたの愛を? 挿入? ペニスじゃなくて? やっぱり、ますますわからない」
「ゴメン。正確に言うと、君の脳をちょっといじって僕の記憶を加えるのさ。わかる?」
そう言って、男がニッコリと笑った。私の様子を探っている。要注意! この笑い方には記憶がある。お父さんと同じ笑い方だ。やっぱりこの男はお父さんに似てるんだ。私には男の話しの内容はわかりそうにないけど、こんな男を見ているのが楽しい。この男、もしかしたら本気で地球人じゃない?
「全然わからない。あなたが言ってることってかなり変。宇宙人っぽい。もっと具体的に言ってもらえる?」
「君の脳をいじって、僕の昔死んだ恋人の記憶を移植したいのさ。それで、君がどこまでその女になるのか実験したい」
「はぁ? それって、本気で言ってる? あなた正気?」
「正気だよ。僕の顔もそんな感じだろ?」
たしかに、男は正気で、からかっているのではないみたい。でも、全くヘンな実験だ。聞いたこともない。確かに世界は広いのかも知れない。
「そんなことができるの?」
「外国の病院に行くと出来る」
「えっ、外国の病院?」
「そうだよ」
「私を連れて行くの?」
「その通り」
「えーっ!」
私はめちゃめちゃに驚いた。男は私を外国に連れ出すのだ。一体、私はどうなるんだろう? 面白そうだけど、こんな話しを信じていいのかしら? 咄嗟に私は誰か相談できる人がいないかと想像したけど、誰もいなかった。
「私は外国で暮すの?」
「そうだよ。僕と一緒にね。もちろん君がOKなら。親の説得も必要だからハードルは高いよ。君に出来るかな? 親を説得するには相当な理由が必要になる。もちろん、その理由は僕の方で用意する。でも君も工夫しないとね」
「期間は? 長く?」
「時間はかかる。多分、1年」
「えーっ、1年も!?」
お母さんの顔が浮かんだ。間違いなくお母さんがひっくり返る話しだ。OKが出るわけがない。
「1年は長いかな?」
「めちゃくちゃ長い。1ヶ月だって長い。その後はどうなるの? ずっと一緒にいるの?」
「多分」
「多分?」
「この実験で僕たちの心がうまく結ばれると、一緒でもいい、離れていてもいい、どこにいても好きな時に会える」
「ほんと? どうして?」
「だって僕の脳は君の脳と繋がる。会っている時と同じように、何でも出来る。セックスも好きなだけ出来る」
「はぁ、セックスも? 出来るわけないじゃない」
「勿論、疑似的だけどね。でも脳にセックスで昇天する時と同じ刺激を与えるから、同じ快感を得られる。僕は何度も体験済みだ。すごく気持ちよくなる」
「そんなこと、私が信じるわけがない」
「やってみればわかるよ」
本当かしら? 想像も出来ない。仮にそうだとしても、大きな疑問が残る。
「そうなの? でも、そんなことをして何になるの? 自己満足だけじゃない? 私があなたの死んだ恋人になれるわけじゃないし。その女が蘇るわけでもないし」
「いや、君は知らないだろうけど、これはいま脳科学の世界ではすごく注目されている実験のひとつなんだ。成功したら世界の仕組みが変わる。人間の忘れていた記憶が蘇る。死んだ人間もある意味で生き返る」
「何を言ってるの? 私には全然理解できない。そんなこと面白いとも思えない。死んだ人間が生き返るなんて、気持ち悪いだけじやない」
死人だなんて、私は入院していた時の霊安室の一件を思い出した。再びゾッとした。気分が悪くなる。
「君のお父さんにも会えるとしたら?」
私はハッとした。
「えっ? 私のお父さん? どうして?」
この男はなぜお父さんの話しなんてするの?
「そうだよ、君のお父さん」
「でも、なぜ?」
「君はお父さんに会いたいって真剣な顔で言ってたじゃないか」
そんな事を言われたら私だって真剣になるしかない。私はお父さんに会いたいに決まっている。
「でもお父さんは死んだのよ。私は疑ってるけど」
「だから君の脳の中で記憶を増幅させて、再生させるのさ」
「そんなこともできるの?」
「不可能ではない。君がつよく望むなら」
「つよく望むなら? 望まないとダメなの?」
「そう。つよく望まないとダメ。その度合いで成功率が決定される」
「それなら凄いと思う。そりゃ、私のお父さんに会えるなら何だってするわ。死ぬほど会いたいから」
でも、待って。なぜ? この男はお父さんの事も知ってるの?
「ちょっと待って。あなたは私をどこまで知ってるの? お父さんのことも知ってるの?」
「調べたよ。君の学校と親類と友人関係からね。君に会うまで1週間の時間があったからね。お母さんには怪しまれるから会ってない。君が大のお父さん好きだった事は友人や親類の間でも有名だったらしいね。そしてお父さんは2年前に死んだ。その後君の病気が始まった。拒食症、だよね?」
「そんな事までわかったの?」
「わかったよ。でも僕は君が病気だなんて感じない。だって君はいま元気そのものじゃないか。からだはキレイだし、可愛いし、セックスはうまいし、それによく食べる。アタマもとても切れるね」
「それは、あなたに会って私はもの凄いスピードで回復したのよ。重度の病人が次の日に突然元気に起き上がったみたいな感覚ね。だって10日前まで私は病院に入院してすごく衰弱してた。あの状態が続いていたら私は死んだかも知れない。だから私はすごくあなたに感謝してる。でも、まだわからない事が多すぎる。結局、あなたはどうして私を選んだの?」
「2つ、大きな理由があったよ」
「2つ?」
「そう。一つは最初に言ったね。君がナツコに似ているから」
「ナツコって?」
「僕の死んだ恋人の名前」
「もう一つは?」
「君が死んだお父さんにつよい執着を残しているから」
「それも重要なの?」
「そう。決定的に重要だ。つまり、君はお父さんを忘れたくない。その思いが異様につよい。その刺激のせいで、君の脳の記憶野に極度に活性化している箇所があるはず。僕はそう考えている。その場所を探し出し、そこに僕のナツコの記憶を移植する。ナツコの記憶はそこで活性化される」
本当にそうなのかしら? 脳の事なんて、私にはわかったようなわからないような話しだ。
「でも、私がお父さんに再会出来るって、どういう事?」
「君の脳でナツコが活動を始めると、その同じ脳の記憶野でお父さんの記憶が君に対してアクティブに作用する可能性があるんだよ。多分そうなる。君がつよく望めば」
「作用するって? どういう事? お父さんが生き返るの?」
「いや、それは違う。お父さんが生き返るわけではない。ただ、君の脳の中で記憶として復活するので、君はお父さんと話しも出来るし、触る事も出来る」
「触る事も? 脳の中だけの出来事ね?」
「そうだよ。脳の中だけ。でも生きた人間との接触だって脳が判断している。死んだ人間も脳の中で記憶として蘇るなら、脳はその存在を認識する」
「だから同じ?」
「ほとんど同じ。しかも」
「しかも?」
「死者との再会には生きた人間との再会とは違う別の利点がある」
「え、そうなの? どんな点?」
「お父さんが本当に死んでいるとすれば、君はお父さんの人生をお父さんが死んだ時点から再開できる」
「えっ、再開? 何の事?」
「お父さんが、君の刺激で、活動を再開する」
「まさか。ウソよ。そんな事が出来るわけがない」
「いや、出来るかも知れない」
「そんな! そうなら本当に嬉しいけど。でも、もう私は理解できない。アタマがパンクした。思考停止よ。この話しはもうやめて」
私は降参した。いくらなんでもこの話しは酷い。飛躍し過ぎ。私の様子を見て、男も理解してくれたみたい。
「そうだね。ゴメン。次の話題に移ろう。もう一つ、君を選んだ理由があった」
男はニコニコしている。嬉しそうだ。私はこの男の笑顔がクセになるかも知れない。ニコニコされると私の警戒心が緩んでしまう。
「何?」
「君が予想以上に面白い女の子だから。君の話しは凄いよ。君は心に怪物を飼って苦しんでいると言ったね。それって、本当にどこかに生きてる怪物かも知れないよ」
「私、そんな事まで話したかしら?」
「君は昨日怪物の話しもいろいろしたよ。忘れたの?」
「うん。忘れた」
私は昨日どこまで話したんだろう? 記憶がはっきりしない。
「僕も君と同じなんだよ」
「同じって?」
「僕も苦しいんだ。僕の心の中にも怪物が住んでいる。ナツコの死を知ってから僕も君と同じ病気を持つようになった。早く解放されたい」
「本当に?」
「うん、本当だよ。だから僕は君が理解できる。自分事のように」
「そうなんだ。嬉しいわ。あなたが熱心に私の話しを聞いてくれるのはその為ね?」
やはりそうなのか? 私が私の話しを聞いてくれる人たちに巡り合えなかったのは、私と同じ体験をした人がいなかったからだ。
「その通り。だからこの計画は僕たち二人にピッタリの実験だよ」
「危なくないの?」
「脳のこと?」
「そう」
「5年前は大変だったけど、いまはもう大丈夫。技術は格段に進歩した」
「私はどうなるの?」
「うまく行けば、君は同時にナツコになる」
「あなたはどうしてもその女ともう一度やり直したいのね?」
「そうだ。ほんの一瞬でもそう思える時間が持てるなら僕はそれで変化する。僕の心の中に住んでいる怪物もいなくなる。実際にどうなるか調べたい」
「そんなにその女のことが重要なの? あなたは彼女をいまでも愛しているの?」
「正確に言うと、ナツコをますます愛するようになっている」
「私はどうでもいいの?」
「実験がうまく行けばナツコになるのは君だ」
「私を愛してくれるの?」
「もちろん」
一体、どういうことだろう。私は整理する必要があると思ってトイレに行った。そして男が言ったことをもう一度考えてみた。私は理解力はある方だと思う。でも、わからない。あまりにも聞いたことがない話しだから。本でもこんな話しは一度も読んだことがない。お父さんからも聞いた事がない。トイレを出てベッドに戻ると、男はノートに何か書いていた。すごく真剣な顔をしている。
「ひょっとして、これは新種の愛の実験かしら?」
「その通り。愛の実験だよ。君もこんな冒険がしたかったんだろ? だから僕の誘いについてきた」
「あなたは本当に貿易商なの?」
「いまは言えない」
「日本人?」
「それも言えない。生まれは日本だけど」
「名前は?」
「篠原ヒロシ」
「普通の日本人の名前ね」
「ニックネームだよ」
「実験は日本ではできないの?」
「日本では法にふれる」
「警察につかまるの?」
「罰金を取られるだけ。でも中止させられる。実験データも没収される。それは絶対にまずい」
「海外では安心なの?」
「医学的には安心だけど、別のリスクがある」
「どんな?」
「カオリは安全だけど、僕が命をねらわれる」
「えっ、なぜ? 誰に?」
そんな危険な仕事なのか? 私は大丈夫なの?
「詳しくは言えない。アメリカにあるイタリアのマフィアみたいな組織だよ」
「えっ、マフィア?」
「うん」
「どうしてそんな危険を冒すの?」
「それが僕の人生だから。実験成果を買いたいという日本の政府関係者がいる」
「売れるの?」
「高くね」
「いくら?」
「10億円くらい」
「えーっ、10億円! 驚いた」
「もっと高く売れるかも知れない」
「わかった。それがあなたの貿易なのね?」
「そういうことになる」
でも、こんなことって本当かしら? 10億円で売れるなんて。どういうことかまるでわからない。これも世界をつくること? 新しい世界の誕生? でも面白いのかも知れない。少なくても、いままで聞いたこともない事ばかりだ。私の脳と男の脳を繋ぐなんて。それで、男の死んだ恋人を私の脳に生き返らせるなんて。死んだお父さんにも会えるかも知れないなんて。私が住んでいた世界には全く存在しなかった新しい刺激だ。男も一緒にやるなら、そんなに危険じゃないのかも知れない。
「どうする? やってみる? 君次第だ」
「待って。いま考えてる」
「君が毎日憧れてきた冒険がここにあるんだよ。この冒険で君が夢の中で悩まされてきた問題を解決できる。君もわかっているはずだ」
私は必死に考えた。答えはもう出ていたけど。ものすごく大事な選択なので、私はもう一度時間をかけてゆっくり考えた。男が私の顔をのぞきこんでいる。やってみようか? からだをいじると言っても、ピアスや刺青の次元とは違う。いじるのは脳だって。それで新しい愛の実験をするんだって。
「わかった。やってみる」
「よし。決まったね。素晴らしい。僕も最大の努力をするよ」
でも、やはりヘンなことを考えている男だ。お父さんもこんなことをやっていたのだろうか? 男は「人さらい」じゃなくてなくて、「脳さらい」?
私は家出した。いくら考えもお母さんを説得できる理由を見つけるなんてムリだから。相談したらびっくりしてひっくり返る。あやしい中年男と海外で一緒に暮らすと言っただけで、確実に真っ青になる。100%理解不能と言うだろう。とんでもないという顔をするに違いない。お母さんでなくても誰だって腰を抜かす。私の脳がいじられるのだ。失敗して死ぬ可能性もある。お母さんに相談したら学校や親類中に騒ぎまくって、私をどこかの施設に監禁する可能性もある。だから黙って行くことにした。「ゴメンなさい。いろいろ心配させて。悟りを得て、つよい人間になるために、家を出ます。一年か二年、一人で修行してきます。心配しないで。お金がかからないリハビリの施設を見つけました。体調も回復しています。ちゃんとひと月に一度は連絡します」って、何だか出家僧のような置き手紙をして。
私は男が住む品川のホテルに向かった。家出は憧れの一つになっていたから、何だか楽しい。男は毎朝ホテルを出て、夜になると帰ってきた。どこに行っているのか言わなかった。ただ出発までの準備に1ヶ月かかると言っていた。私は毎日留守番で、部屋についた台所で食事の準備をしたり、掃除をしたり、奥さんになったみたいで嬉しい気分。お小遣いもくれたので、駅の本屋で本も買った。特に料理の本。私は食べる事も大好きだからこの機会にもっと料理の研究をしておこうと思った。外国に行くんだから、日本食以外についても調べておかないと。
日本を出るまでの1ヶ月間、私は毎晩男に抱かれた。男は精力が強い。もちろん、こんなに続けて男に抱かれたのは初めて。私の性のセンサーも完全に回復したみたい。抱かれる度に行くようになった。男はやさしくて、セックスが済むと、ベッドの上で私を抱いたままボソボソといろんな話しをしてくれた。私が眠るまで、毎晩1時間くらい。危険な男ほどやさしいのかも知れない。どうやら私が気に入ったみたい。
私も、自分の考えを面白いと言って聞いてくれる男にはじめて出会った。こういう人間が私の周囲にはいなかった。ひょっとしたら、私は愛されるのかも知れない。男が私に特別な気持ちを込めているのを感じるから。私はこんな風に人に当てにされたことはない。こんな男にめぐり合って、私はラッキーだ。この男は私の期待通りだ。お父さんのように何か特別な存在なのだろうか? そうあって欲しい。だから途中から心配になった。私でいいのかしら? もっといい女が出てきたら私は用済み? そんなの絶対に許せない。
第4章 愛の駆け引き
1
カオリを好きになってはいけない。
たしかに、カオリには驚いた。母に置き手紙をして正式に家出してきたという。キッパリしている。カオリは大胆で、大人の面をもっている。しかし、当然だが強がっているだけだろう。まだ14才だ。新しい事態にどう対処できるかは未知数。不安定で危ない存在だ。誰かが守る必要がある。子供のままで、大人ではない。
それでも、期待した以上に、カオリは魅力的で、早熟な子であることは間違いない。早熟であること、しかも心が特別つよい子でなければ、こんな実験はムリだ。脳ほど、高度であると同時に繊細な器官はないからだ。情報の一大集積基地で発進基地としての脳は、外界や内部のちょっとした変化に敏感に反応する。すぐに悲鳴をあげる。脳が毎日基本的に8時間の睡眠を必要とするのも当然なのだ。脳には長時間の休憩が必要。毎日出される緊急指令も数えきれないほど多いし、はかなく脆弱な器官だ。修復能力の高さが最近の脳科学で証明されてきたとはいえ、少なくとも情報に関しては今でも簡単に間違った判断を下し、混乱する。とても未熟だ。リアルと仮想を見分ける情報の真偽に関する判断も、まったく正確ではない。脳は簡単に騙される。何のことはない、われわれが大切にする夢とは脳の情報処理の未熟さを原因とする場合が多いのだ。
だから、脳が改善されたら、まず脳は8時間もの休憩を必要としなくなる。それで人間は次第に夢を見なくなっていく。脳の情報処理の不正確さも改善されるようになると、人間は重大な決断を迫られることになる。夢は人間に必要なのか? そうではないのか? 夢を奪ってしまう脳の改造は中止すべきか? 続けるべきか? 夢を見られなくなるとしたら、誰にとっても一大事件になるはずだ。人間の精神生活に根本的変化が起きるからだ。夢を見なくなった人間たちが登場したら一体何を始めるだろう? 正気を保つ事が出来るだろうか? 大問題だ。興味は尽きない。
僕のグループが最大に注意すべき点は、僕たちの実験では一つの脳が全体の脳ネットワークに繋がっているという事実だ。僕たちは、脳の改造や発展は単体の脳に対する操作では成功しないと考えている。だからカオリの脳は僕の脳に接続されるし、僕の脳は他の多くの脳に接続されている。一つの脳における失敗は全体の脳ネットワークに侵入し危害を加える。彼女の脳における失敗は全体の成長をおびやかす。一度加えられた危害を修復することは容易ではない。ここでは、全体として成長することしか出来ない。犠牲を出しても他で補えばいいという世界ではないのだ。
だから、前の女たちの場合も、脳が悲鳴をあげた時点で実験はすぐに中止した。真相は知らせず、家に帰ってもらった。理由は彼女たちに説明していない。他に好きな女ができたとかの理由でごまかしている。実験について口外しないという約束で、守秘義務の書類にサインさせ、全課程を修了した時の報酬は3,000万円。中途で終了した時は1,500万円。高すぎても疑われる。安いと口外される。後から脅されてトラブルが発生したりすることがないように、連絡手段はすべて絶つ。
成功確率が高い意識のつよい子を募集するなら、本当は公式ルートを踏んだ方が獲得の可能性は高い。それは承知している。しかし違法なことをやるわけだから、そうはいかない。それでは失敗例を闇から闇に葬ることができない。僕たちの脳ネットワークの存在や現在やっている実験も公になってしまう。だから、ネットでの怪しい募集がちょうどいいのだ。
それにしても、カオリは早熟だった。からだも、アタマの中も。僕は初めてカオリのような明晰な頭脳を持つ子に出会った。カオリのセックスも、14才にしては驚くほどだ。そこまでは期待していなかった。男を楽しませるテクニックを知っている。色気があり、男をその気にさせる。いまの若い女たちがみんなこうだとすれば男たちも大変だ。あんな上品な声を出されたらどんな男ものめりこむ。男は繊細な可愛さに弱い。演技された声であることがわかっている場合でも、守ってあげたいとか男の方で勝手に思い始め、ドライになれない。乱暴に、道具同然に、女を冷たく扱えなくなる。
だから、僕は注意しないといけない。カオリを好きになったらまずいのだ。カオリはあくまで実験材料だ。ダメなら別の新しい子に取り換える。必要以上に大切に扱ってはいけない。
しかし、カオリは日に日に魅力を増していく。困ったものだ。カオリが毎日自分に目覚め、急激に変化していく。僕もその変化に巻き込まれる。そして、僕と話しながら、同時に恐ろしいほど冷静な目で僕を見ている。この冷たい目つきは、一体何だろう? まるで神の視線で僕を観察している感じだ。この目つきがカオリの最大の魅力だ。セックスの時の男を吸い寄せる甘い目とはまるで違う。冷徹な哲学者の風情だ。ニコニコ笑いながら僕に接し、一方で冷静に、僕のやることのすべてを見下ろしている。とても14才の小娘には思えない。実験にも平気でついてくる気だ。別の人格になることにも興味があるようだ。
2
カオリと知り合ってから1ヶ月後。夏の初めに僕は彼女を連れて、成田からパリ経由でイスタンブールに旅立った。最初にパリに2週間滞在し、同じメンバーの友人の家に泊めてもらった。友人の家は凱旋門近くの日本大使館の隣にあった。どこに行くにも便利で、地下鉄でカオリを美術館やブティックや繁華街に連れて行った。友人にも彼女を見せておく必要があった。彼女にも出来るだけ多くのものを見せておきたかった。彼女の好みの服も買った。彼女にはいろいろ学んでもらう必要がある。実験を支える素養として必要だったからだ。しかし、彼女はパリを特に喜ばなかった。
「面白くないの?」と聞くと僕が聞くと、「面白いわ。でも興奮しない」とカオリは答えた。
「なぜだろう? 女の子はパリに夢中になるけど」
「わからない。何だかもう知っていて、飽きてる気がする」
「パリに来た事があるの?」
「もちろん初めて」
「でも、退屈?」
「そうね。目覚めない。私のアンテナが開かない」
「面白いね。それが判断基準みたいだね。君の特徴だ」
「だって、興奮しないわけだから、退屈よ」
それが、2週間後にパリを発ちイスタンブールに到着した途端、カオリの表情が変わった。空港からタクシーで中心街に着き僕がよく行くカフェ・イスタンブールに連れて行くと、彼女のアンテナは開いたようだ。コーヒーを飲みながら、カフェの客たちや通りを行き交う人々の顔を熱心に眺め始めた。カバンからノートを出してスケッチも始めた。時計を見ると彼女はもう30分も飽きずにスケッチを描き続けている。そして僕の顔を見て「イスタンブールは面白い!」と嬉しそうに言った。なぜだろう?
「イスタンブールのどこが面白いの?」
「何か、すごく面白い。よくわからないけど。パリとはまるで雰囲気が違う」
「どう違うの?」
「一番違うのはトルコの人たちの目つきね。特に若い子たち。男子も女子も目が乾いてない。飢えた目みたいだと思わない? 好奇心と欲望ではち切れそう。そんな目ね。素敵だわ。好きになれそう」
「でも君は年寄りの顔も熱心に見てるよ。スケッチは何枚描いたの?」
「それは私が骨相学が好きだから。全部で5枚」
「5枚も? 描いたのは老人だけ?」
「そう。老人の顔は特別にいいわよ。トルコの人たちって、民族的にはどんなルーツを持つのかしら。知ってる?」
「トルコ人の血は複雑みたいだよ。古代から今まで大帝国をつくってきたからね。アラブの血にヨーロッパやロシアやアジアの血が色濃く混じってる」
「そうなの。ねぇ、ちょっと店の端っこに座ってる女の人の顔を見て。そっとよ。彼女の顔、変わってる。中東系の顔なのに鼻だけ日本人みたいだと思わない?」
僕は振り返り、さり気なく女の顔を見た。
「うん。一つの典型だね。トルコ人だけどアジア人にも見えるね。モンゴル系とフィンランド系も一部だけどトルコに来たらしい。それで血が交じっているんだよ」
「モンゴルはわかる気がするけど、フィンランドも? 意外ね。なぜ?」
「フィンランドは北欧の中でも特に変わった歴史を持ってるね」
「ムーミンの国ね?」
「そう。僕のグループにもフィンランド人だけど日本人と同じような鼻をした女の研究員がいるよ。僕には親しみやすい」
「面白いわ。私、そういう話って大好き」
「それもお父さんの影響?」
「そうね。お父さんは中東の国のいろんな人の写真を送ってくれたの。日本に帰ってきても旅の話をよくしてくれた。イスタンブールが好きよ。何だか懐かしい」
「イスタンブールを知ってるの?」
「もちろん知らない。お父さんの話しだけ」
イスタンブールは、昔もいまも観光と金融と文化で栄える中東の大都市だ。トルコはいま、EU統合問題で大揺れする一方で、国際資本の流入で活性化の時を迎えている。そのせいもあり、東西文明の合流地点として昔から有名な大都市イスタンブールはいま、首都アンカラとはまた別の活気にあふれている。人口も一時1300万人と言われていたけど、イスタンブールの友人の建築家によればもっと増えて現在では1500万人を超えているという。東京より大きいよ。でも、この街の魅力はそんな表面的な活気だけじゃない。ここは過去の記憶が現在もそのまま生きている珍しい土地だ。トプカプ宮殿、ブルーモスク、アヤソフィアなどがある観光地をはずれて、ヨーロッパサイドとアジアサイドの古い町並みを一日ゆっくり歩いてみればよくわかる。ここでは過去と現在の時間が、整理されないまま、多様に錯綜している。古い家屋と超モダンのビルが同居し、古代につくられた道と最新の道が街中のいたるところで平行して走っている。イスタンブールでは過去が生きているという点で、世界でも際立った街なのだ。その点が、過去が遺跡としてきれいに整理されているローマとは違う。また同じ文明の大合流地点と言っても、洗練されて華やぐパリとも違う。一人でボスポラス海峡を渡るボートに乗ったり、街中をあてどなくさまよっていると、ほんとうに自分が中世の街に暮しているような錯覚に襲われる。僕は中世のトルコ伝統の細密画の絵師で、旅でしばらく家を空けた後、古ぼけた鉄の玄関を静かに開けて自分の家に戻ると、そこに懐かしい妻が子供を連れて現れ、「お帰りなさい」と笑顔で出迎えてくれる。そんな気がする。
だから、カオリとの実験の成果を検証するために、イスタンブールほど相応しい場所はないのだ。必要な手術はベイルートで行う。実験の成果検証のために滞在する都市はイスタンブール。それが僕のチームが計画した旅のコースだ。イスタンブールでは、僕の過去の記憶も、現在として鮮明に蘇ってくる。ここでは過去と現在が混在できる。ナツコが僕の記憶から抜け出して、街の中を一人で歩き出す。僕も17才の少年に戻ってナツコを追いかけ、一緒に道を歩いていく。ナツコと僕は、ボスポラス海峡近くの現代美術館の裏庭で波しぶきを浴びながら抱き合い、ラバントの最新設備のショッピングモールの中を子猫のオスとメスのように走り回り、朝から晩まで街の中でじゃれ合っている。一日はそれを曖昧にして楽しんでいるのがいい。次の日はそれを明確に区別するように努力する。これほど、僕の実験と意識の訓練にふさわしい土地はない。手術後の僕とカオリの生活の場所として、イスタンブールは最適の土地なのだ。それに、ここの女たちは、長年の東西文明衝突の象徴として、たぶん世界で一番美しい。ヨーロッパ系・アラブ系・アジア系・ロシア系と、血は複雑に混じり合い、4通りの美しい女たちが大学キャンパスから街中をうろうろしている。食べ物も、トルコ料理が世界三大料理の一つに数えられているようにかぎりなく美味しい。友人も、貿易商の肩書きで毎年ここに来るせいで、たくさんできた。誰も僕の本当の職業は知らない。
僕は今回はアジアサイドのカディキョイにある最新ホテルにカオリと泊まった。それにしても、カオリもここでは一人前の美しい女なのだ。カオリが街を歩くと、男たちが振り返る。男たちはカオリのからだに熱い視線を注ぐ。カオリもその時ばかりは妖艶な笑みを浮かべる。まだ14才なのに。そして、そんなカオリを連れて歩く私を、男たちが羨ましそうに見ているのだ。
3
3ヶ月後。
カオリがイスタンブールの生活に馴れたのを確認してから、二人でレバノンの首都ベイルートに向かった。飛行機で2時間。ベイルートも、小さなパリの真珠と呼ばれていた。イスタンブールとはまたタイプの違う東西文化交流の地で、観光と金融の都市だ。ここで、メンバーの一人である友人の産婦人科医が僕たちの実験のために準備を進めてくれている。
ベイルート大学付属脳科学研究センター医療研究室。ベイルートの中心街を抜けた海岸通りの一角に、この大きなセンターは緑に囲まれて聳えるように立っている。アメリカをはじめEU圏からの予算の支援を受けており、充分すぎるほどの資金に恵まれたリッチなセンターだ。
この友人の話しでは、むろん公には秘密ということになっているが、ベイルートのある政府系医療研究室ではすでに1990年代前半からヒトを対象としたクローン開発実験が行われるようになったという。彼の話しでは「その病院で誕生したクローン人間の何人かが、少なくとも1.000人前後は、世界各地に拡散されている」という。僕が「成功したのは君の病院ではないのか?」と聞くと、友人は曖昧に笑って答えなかったが。
いずれにしても、この病院は脳科学系として今では世界でも最も有名な医療機関の一つになり、最先端医療が毎日行われている。僕の脳科学者としての仕事には、この病院と私が籍をおくアメリカの研究所との情報交換も含まれている。私の仕事が「ポスト人間の脳」を開発することであることは、私の一部の友人以外は誰も知らない。
カオリの1回目の手術は、簡単ではなかった。14才の脳にしては構造的に未発達の部分が多かったと担当医は言った。この担当医の役割は、彼女の脳に非侵襲式のBMI-Xシステムと呼ばれる最新のブレーン・マシーン・インターフェイをセットすることだ。非侵襲式も侵襲式も最近はどちらも以前より格段に進歩していて、一般的には侵襲式が精度が高いが、僕たちの実験ではこれは使えない。首の後ろに電極が出てしまい、外部から一目で装着の事実がわかってしまうからだ。秘密にする為には、帽子と同じように扱える非侵襲式しかない。それでもかなり込み入ったことをやるため、担当医にも高い技術が求められる。その後のネットワーク構築とプログラム設定は僕の友人の担当で、ここからが極秘扱いになっている。カオリには、僕が知っているナツコの記憶と共に僕の研究機関が収集したナツコの幼少時からのすべての記憶を挿入する為、時間もかかる。
カオリの手術も3回目でやっとうまく行った。その後、今度は僕と二人揃って2週間入院し、僕の脳にすでにセットしてあるBMI-Xシステムを調整し、カオリのシステムとの同期を図る手術を行った。この手術が特に重要だった。
カオリは都合4週間入院していた。手術でアタマや顔が変形したり痛みが残るとかはないので、生活に支障はない。ホテルに泊まっている感覚で、彼女も病院では普通にしていた。ただ外には行けないのでそれはかなり苦痛だったみたいだ。そして、二人の手術も終わり、僕たちは通常の会話の他にBMI-Xシステムを通しても会話するようになった。カオリは慣れていないので、日常会話とシステムによる会話の差が最初はわからなかった。通常の会話での心の過程とBMI-Xシステムでの心の過程には質的な大きな差があるが、その違いを判別することは最初は誰にも難しい。
僕が、自分の意識を意図的に朦朧にして、僕の脳に残されたナツコの記憶の中にもぐりこみ、死んだナツコを死んだことがないと本気で感覚するようになると、その影響がBMI-Xシステムを通じてカオリにも現れ、カオリの脳に挿入されたナツコの記憶とカオリ自身の記憶が接触をはじめる。私の見え透いたウソの演技はカオリの無意識の門を通過できないが、私が錯覚であれ何であれ本気でそのように思いはじめると、カオリの無意識はその影響を受け、次第に私からの仕掛けを防御しなくなり、二つの記憶が一つの記憶だったかのように融合を開始する。それが僕たちが考えている仮説だ。
その時カオリは、最初は私が演技しているのか、本当にそう思っているのか、類推しながら対応することになる。そして、彼女にその気がない時は大した効果はないが、少しでも彼女の方でも私に同情したり、或いは自分も積極的にナツコでありたいと思ったりすると、彼女の脳にも大きな変化があらわれる。つまり、私の侵入に対する審査を彼女が自分でやめてしまうという変化だ。この変化が重要なのだ。その結果、その場合に限り、私の努力も、彼女によって拒絶される行為だったものが、歓迎される行為に変化する。彼女がナツコへの同化作業を自分からはじめてしまうというわけだ。
こうして、僕とカオリによる実験は、「愛」の力を巧みに利用することで、一定の成果を上げる可能性が出てくる。ある日、突然、彼女が、「私はナツコよ。何か変?」と言い出すことも不可能とはいえない。僕の期待はそこにある。その時、彼女の脳は一体どうなっているのか? 脳は僕たちの仮説の通りに改造され、僕たちは新しい人格形成に成功したことになるのか? これが僕の最大の関心だ。そして、一旦そうなってしまえば、ナツコが23才で死んでいるせいもあり、まだ若い彼女が23才以後のナツコを生き始め、ナツコ以上のナツコになる可能性は無いとはいえない。カオリがそうなれば、僕にその過程がリアルと感じられる限り、僕は17才で中断したナツコとの関係を育てていける。カオリがナツコの代わりをやってくれるのだ。
そして、僕が別の手術でナツコが23才で死んだという自分の記憶を消してしまうなら、僕がめざす実験は完璧なものに仕上がる。カオリはそれで混乱することになるのか? 或いは混乱しないのか? 僕の脳と彼女の脳は常にネットワークで接続されている。意図的なハッキングと、無意識のハッキング。僕と彼女は、毎日、それをお互いに対して繰り返していく。こうして、彼女にも、僕にも、新しい記憶がつくられることになる。
だからこそ問題は、その成果を判断する能力だ。甘い評価はダメだ。正確無比なものでなければ意味はない。真相がわからないからだ。
4
僕たちは二人の術後の回復を待って、イスタンブールに戻った。そしてカディキョイのホテルを引き払い、ヨーロッパサイドのタクシム広場の北側にアパートを借り、夫婦であることにして一緒に暮らしはじめた。
トルコは日本が日清戦争でソ連に勝った事をもって、日本を尊敬していた。トルコと大国オスマン帝国でさえ唯一戦争で勝った事がない相手がソ連だったから。また、トルコの船が日本の和歌山県の沖で座礁した時に串本町の漁民が助けた事をもって、トルコのメルシンと串本町が姉妹都市になっていた。そんな関係もあり、トルコ人は以前から日本人に親切で、僕たちの関係を怪しむ者は誰もいなかった。これが日本なら、僕たちの年齢が離れていることは誰の目にも明らかなので、夫婦だなどと言ったら怪しまれて大変な事になっていただろう。誰も二人が夫婦などとは信じない。カオリは17才には見えるかも知れないが、先月やっと15才になったばかりだ。その意味でも、イスタンブールを居住地に選んだことは正解だった。アパートのトルコ人の住人たちが僕たちを見る目は優しかった。
そして、はじめの内は「私はカオリ。ナツコじゃないわ」と言い続けていたカオリも、次第にそれを言わなくなった。しかし、それだけでは僕の作戦が成功しているのかどうかはわからない。アタマのいい彼女だ。何か内緒で考えている可能性もあるからだ。何事も、慎重に。ここからは、良くも悪くも、僕と彼女の真剣勝負の騙し合いだ。
僕はカオリに油断できない。愛情と実験を明確に区別すること。非情に徹することが、僕が自分の仕事を成功させるためのルールだ。僕と彼女の脳はBMIネットワークとして繋がれ、その関係は安定している。読み取る技術に長けてくれば、彼女は僕のどんな心の動きも察知し、見破ることが出来る。だから、僕は、彼女が自分はナツコだと思いこむ度合いを一定レベル以上に高める作業を急がなければならない。この作戦は時間との勝負なのだ。その時間を過ぎてしまえば僕の彼女への誘導は見破られ、僕の努力は無効になってしまう。とにかく、急ごう。
僕のカオリへの働きかけ方はいつも同じだった。それは徹底して「僕は君を愛している」と言い続けることだ。女には「愛」が一番の特効薬だからだ。それだけでいい。単純だが、彼女の心の微妙な変化も含め、それらをすべて正確に読み取りながら僕は対応していく必要がある。
5
その日、僕がアパートに帰ると、カオリは本を読んでいた。
僕がいつものように「君を、愛している。過去でも、現在も、未来でも」と言うと、カオリは「本当? 約束してね」と言って嬉しそうにして僕に飛びついてきた。僕も彼女をしっかりと抱きしめた。そして、そこからいつ終るとも知れない彼女の質問攻めが始まる。彼女も、それが儀式であるかのように、毎回同じセリフを繰り返す。僕も、同じセリフを繰り返す。お互いの脳に刷り込んでいるのだ。
「あなたが、私を愛してる?」
「あぁ、そうだよ」
「あなたが、私を愛してる。あなたが私を? 本当に?」
「あぁ、本当だよ」
「でも、あなたが言う君って、誰のことかしら?」
「君は君だよ」
「私は、私?」
「そう。君は君」
「なぜなの? あなたはイスタンブールに戻ってきてから私の名前を呼ばなくなった。いつも、君」
「だって、君は君じゃないか」
「私はカオリ? それともナツコ?」
「君は、カオリで、同時にナツコ」
「最近はいつも同じ答えね。私は、カオリで、同時にナツコ。でもいいわ。不思議なのよ。私も、何だか、あなたを愛しているのかも、って思う」
「本当に?」
「多分ね」
「多分?」
「えぇ、多分、私もあなたを愛してる」
「僕も、なぜ君をこんなに愛することになったのか、実は正直わからないんだ。想定外だ。ナツコとカオリの区別もよくわかっていたのに、最近わからなくなってきた」
「だから私の名前を呼ばないで、君って言うのね?」
「それしかないよね」
「私はカオリ。ナツコじゃない。それはよくわかっているけど、でも、私も最近、少しおかしい。子供が欲しいと言ったナツコの気持ちが少しわかってきた」
「子供が欲しいと言ったのは、カオリじゃなくて、ナツコだよ」
「私も、子供が欲しい」
「えっ!?」
「あなたが私に産ませたいなら、いいわ。私は産むわ」
「本気で言ってるの?」
「えぇ。私もあなたの子供が欲しい。最近そんな思いになってきた」
「冗談だろ?」
「冗談じゃない。本気よ」
「それはいくら何でも早すぎる。君はまだ15歳になったばかりだよ」
「えっ? でも、それだと、ナツコに言ったセリフと同じじゃない? ダメよ。あなたがナツコにそんなこと言ったから、彼女は早く死んじゃったんでしょ?」
「多分。そうだと思う」
「あなたはそれで反省して、子供を産むか産まないかは女の判断に任せると言ったはず。私にそう言ったのよ。忘れたの?」
「もちろん忘れてないよ。そうだね。君が大丈夫ならいいけど」
「私は大丈夫。産んでいいのね?」
何か、変だ。カオリの様子がおかしい。カオリが自分で僕を愛しているなんて言い出した。それに今日は僕の子供を産みたいなんて。ナツコと同じ事を言い出した。カオリは既にナツコになっているのか? ナツコの思いを代弁し始めたのか? でもそんなに簡単に僕たちの計画がうまく行くはずがない。今のところ、カオリに意識障害の徴候は見られない。僕には内緒で、カオリは何か別の事を考えているのか? そうだとすれば、僕が混乱しない内にカオリが今どんな過程を辿っているのかを正確に知っておく必要がある。そうしなければ、僕の方がおかしくなるかも知れない。二人の脳は繋がっているので、僕が弱みを持つとそれはカオリに見抜かれて利用される可能性が出て来る。僕がカオリに支配されるようになってしまえば、立場は逆転だ。
「君も、僕に何かしてるの? 僕が君に働きかけているだけではなくて。昨日も一人で僕の脳マップを見てたよね?」
「気がついた?」
カオリが嬉しそうに笑っている。やはり何か危ない。
「変だと思ってたけど。最近、僕の記憶系も微妙に混乱してるから」
「でも、私は、あなたのようにやってるわけじゃない。だから安心して。あなたの方法は私に教えてくれないんでしょ?」
「それは機密だからね。僕の一存ではどうにもならない」
「それがあなたのいつもの言い訳ね」
「君は、僕に何をしてるの?」
「あなたと愛し合っている時に、できるだけ正確にお父さんの事を想い出しているだけ。その時に集中してお父さんのことを考えているの。単純でしょ?」
「その時って?」
「あなたが射精する瞬間。ほんのちょっとの時間。3秒間? それとも5秒間? だってその時があなたが一番油断している時よ。私はあなたの脳に楽々と侵入できる」
「その時に僕の記憶にお父さんの記憶を混ぜてるの?」
「そうね。だって、私はあなたの記憶にお父さんの記憶を混ぜたいの。あなたが私の記憶にナツコの記憶を混ぜてるように」
「どうして? 何を望んでいるの」
「はっきりはわからない。ただ、私はもっとあなたを愛したいって思うようになったの。あなたが私を凄く愛してくれるから、お返しよ。それには、私のお父さんがあなたと脳の中で合体してくれたら一番いい気がした。そうすれば、私は迷いなくあなたを愛せる。そして私があなたの子供を産めば、愛が完成するわ。どう思う?」
「つまり、君の脳の中で君がナツコになり、同時に僕の脳の中で僕が君のお父さんになればいい?」
「そうね。そうだと思う」
「僕たちのグループが思いつかなかった方法だよ。僕の思いも適い、君の思いも適う。そういう事?」
「それで対等になるわね」
確かに。そうかも知れない。この方法が一番効果があるかも知れない。僕がカオリにこの実験でお父さん会えるかも知れないと暗示した件も、実際にはこれで実現するのかも知れない。
「効果が出てる?」
「うん。出ているかも知れない」
僕も、正直、認めざるを得ない事がある。特に、最近、それが増えている。
「最近、夢の中に僕が知らない男がよく出てくるからね。その男が君のお父さんだとすればね。君の影響だよね? お父さんの写真は持ってる? 持ってるなら見せて」
「えっ? 私の事は調べたはずよね? 私とお父さんとお母さんが3人で映った写真、見てないの?」
「いや、見てないよ。君の写真を見ただけ」
カオリは首にかけているペンダントを外して蓋を開き、その中から小さな一枚の写真を私に見せた。親子3人が写っていた。驚いた。夢の中の男と同じだ。
「どう?」
僕は正直に答えた。ウソを言えばカオリに見破られる。
「うん、同じだよ。夢の中の男は君のお父さんだ」
「凄い! もの凄い効果じゃない? 私もそんなに効果があるなんて期待してなかったけど。あなたのグループのシステムが優秀だから?」
「そうだと嬉しいけどね。正確には調べてみないとわからない。特別に君にその種の力があるのかも知れないしね」
「その種って?」
「憑依する力とか? 洗脳の力とか? 僕もよく知らないけど」
「えーっ! でも安心して、私にそんなオカルトの力があるわけないから」
「わからないよ。人間の潜在的能力なんて、普通は誰にもわからない」
「そうかしら?」
「でも、とにかく、夢の中の男が君のお父さんだなんて本当に驚きだ。実は、この間も、本屋に行った時、僕がオルハン・パムクの本を探している自分に気づいてびっくりしたよ。僕は小説は読まないからね。オルハンはお父さんが好きな作家だったよね?」
「凄い! でも有難う、覚えていてくれたのね。オルハンはお父さんのお気に入りだった。それで彼が住むイスタンブールの話しもよくしてくれたわ。彼の私設美術館にもよく行ったって。政治の話しは私には難しくてわからなかったけど」
「それで君はイスタンブールのことを知っていたんだね?」
「実はそう。でも少しだけ」
「来たこともあったの?」
「それはない。お話しだけ。来たのは初めて。でもお父さんが好きなイスタンブールは私も大好き。だから私が今イスタンブールに住んでるなんて、本当に夢みたいなの」
「オルハンはノーベル賞もとった作家で、日本でも有名だからね。あと、最近自分の食べ物の好みも変化してる。この間は会合で韓国料理のレストランに仲間と行った。僕が食べたいからって誘ったんだ。でも後で僕は自分が韓国料理は苦手だった事に気づいて驚いた。特にビビンバがね」
「何と! ビビンバはお父さんの大好物よ」
「やはりそうか」
「それって、どんな感じ?」
「自分の中に全く知らない人間が住んでいる感覚だよ。気持ちが悪いわけじゃない。この感覚が僕たちが研究している感覚だしね。でも、まさか、僕が君からこんな影響を受けるとは」
「実は、私も、最近あなたといると本当にお父さんの傍にいるように感じる。変ね。私は死者の甦りなんて信じないし。でも私には、あなたがお父さんとの合体のように見えてきた。お父さんの匂いがするの。あなたの匂いと混じってる。だから嬉しいの」
僕は警戒した。今のもカオリによる洗脳の続きではないのか? ここまで話しが展開してしまうと、彼女が自然に振舞っているだけなのか、或いは何か僕に作戦を行使しているのか、見当がつかない。僕は喜ぶべきなのか? 或いは、急いで僕の脳の中の彼女のお父さんの存在を消去すべきなのか? 消去しないと僕が危険になる? 至急にメンバーに相談する必要がある。ベイルートで追加の手術が必要になるかも知れない。とにかく今は、僕の変化とカオリの変化を冷静に観察し、2つの脳に現実に起きている事実を究明することだ。
「僕はいま、僕と君のお父さんのミックス。君もカオリとナツコのミックス。そういう事だよね?」
「そうだと思う。私も自分とナツコとの境界が本当に曖昧になっている。それに」
「それに?」
「私も自分へのこだわりを捨てれば得をするのかも知れない。だって、その方があなたがもっと私を愛してくれるから。あなたは私に100パーセントナツコになって欲しいのよね?」
カオリが私を覗き込んでいる。彼女の眼はクールだ。どんな事も見逃さないように冷静に観察しているのだ。
「自分にこだわらないなんて、そんなこと出来る? 僕には出来そうもないけど」
「あなただって努力は出来るわ。私は出来る。私にはそうして欲しいんでしょ?」
「そうだね。君が100パーセントナツコになったら、それは凄い事になる」
「わかった。やってみるわ」
元々カオリはナツコにそっくりなわけだけど、今僕の前にいるカオリは? 彼女はどの位の割合でナツコになっているのか? 50パーセント? 100パーセントなんて、そんな事はあり得ない。或いは、全ては彼女の演技で、本当は100パーセント彼女のまま? そうだとすれば彼女は恐るべき技巧派だ。
「どうしたの? 何考えてるの?」
大変な事になっているのかも知れない。今の僕にはその差がどんどんわからなくなっていく。
「元気失くしたの? 私はあなたが喜んでくれと思ったのに。私が何かやり過ぎた?」
僕はカオリに何も言えなくなってしまった。僕の顔も、今鏡で見たら驚く事になるのかも知れない。もし、僕の顔が、彼女のお父さんが半分混じった見た事もない変な顔をしていたら? 僕はどう反応するだろう? その場合、それは僕たちのシステムの成果なのか? 或いはただ彼女の演技に僕が乗っ取られている過程に過ぎないのか? ややこしいのは、こんな僕の心の動揺は彼女には隠せず、全部脳ネットワークを通じて彼女に筒抜けになっているという事だ。彼女はその情報を解読しているだろうか? 彼女は今、僕のこんな状態をどこまで読み取っているのだろう? そして、僕がいま自信を失くしかけているのは、僕にもこの脳ネットワークを通じて彼女の情報を読み取れるはずなのに、何の手応えもない事だ。僕はこのシステムを熟知していはずだ。それなのに、どうなっているのか? 僕は彼女の心の動きが読み取れない。僕は今、経験した事がない混乱に襲われている。僕はいても立ってもいられなくなり、トイレに立った。鏡で自分の顔を見る為だ。
第5章 私は思う
1
ヒロシは、結局何をしたかったんだろう?
最近、それが私にもわかってきた。最初の内はヒロシの説明を真に受けてたけど、しばらくすると「これが私の考え」というものが湧いてきた。
ヒロシの説明では、私たちがやっていたのは脳への介入による医学的実験。それである程度の成果が出た。果たしてそうだろうか? 私たちが得た成果はその実験による効果なのかどうか? そこが怪しい。要するに、悪く言えば、やっていたのは新しい装置を使った洗脳ごっこに過ぎないからだ。洗脳ごっこなら、人間は昔からやってきた。大がかりな装置も不要だった。つまり、洗脳ごっこだとすれば別に新しい実験でもなんでもない。使ってる装置が高価なだけ。成果があったからと言って、それが脳への侵入のおかげなのか保証がない。そんな装置を使わなくても、私たちが愛し合っただけでその成果が起きたかもしれないからだ。
だから、私はこの実験には本当の関心が持てないままだ。ヒロシの実験が成功したのか、失敗だったのか。今の私にはどっちでもいい事になる。そんな事より、私には、男というものが少しわかった事が面白かった。私が自分が自分なのかナツコなのか判断できない状態になった時は、確かに興味深かった。経験した事がない恐怖も感じたし、新鮮な体験だった。でも今ではその効果も消えている。私はカオリそのもの。ナツコの気配はない。
それよりも、男って根っからのロマンチスト? そして、何で男は新しいものをつくりたがる動物なのだろう? 私は死んだお祖母ちゃんを思い出した。お父さんのお母さん。ずけずけとモノを言う面白い人だった。彼女の口ぐせは、「男の言う新しいことは、古いこと。後始末をするのは、いつも女」だ。当たっているよね? お父さんも彼女にはアタマが上がらなかったみたいで、「お前も、新らしがり屋を気取ってるけど、昔の男と同じだよ」と言われ、その度に苦笑していた。
今度の場合だって、結局後始末したのは女の私だった。15才になったばかりの女子が後始末だよ。お祖母ちゃんが言う事は正しかった。それにしても、お父さんなら、いまの私を見て何と言うだろう? いい冒険をしたと褒めてくれるだろうか? 私は褒めて欲しい。それとも失敗だったからもう一度やり直してごらんと言うだろうか? あぁ、私はお父さんに会いたいよ。そしてお父さんの考えを聞きたい。ヒロシが私をナツコにしたかったように、私も彼を私のお父さんにしたかった。私はもちろんお父さんとセックスしたいわけじゃない。そんな事は考えた事もない。ただ私は、お父さんに身近にいて欲しかったのだ。彼の力と私の力。一体どっちが強かったの 彼が私から逃げ出したとすると、私が強かった事になる。今でも彼と私の脳はつながっているの? 私たちの駆け引きはまだ続いているの? 彼は不利になったので私から身を隠したの? 確かに私は変わったわ。強くなったと思う。元気になったし、世界への好奇心は確実に強くなった。世界について、私はもっともっと知りたくてたまらない。
もちろん、私はヒロシに感謝している。死にかけていた私を復活させてくれた男だ。病院から退院できた。私の中に住んでいた怪物もいなくなった。私が特に嬉しかったのは、彼が私を真剣に愛してくれたこと。私も彼を愛し始めた。自分で子供が欲しいとも言った。そんな気持ちになったなんて今では信じられない。でも、そうなった。愛が私にそんな気持ちにさせたのだ。私は彼と暮している時、毎日が楽しかった。実際に、イスタンブールという憧れの都市で生活していた。カフェ・イスタンブールを拠点にして、彼と一緒にイスタンブールの隅々を歩いた。毎晩、彼に抱かれて、夜中まで彼といろんな話題で話し続けて、彼の知恵を学んだ。幸福な日々だった。でも、楽しかったのに、彼は去った。結局、私たちが出会ってからちょうど1年後。そう言えば、彼もこの実験には最低1年が必要だと言っていた。
2
その朝、目覚めたら、隣に寝ているはずのヒロシがいなかった。洋服ダンスに架けられた服も、大きな旅行カバンに入った荷物もそのままだ。夜になっても帰ってこなかった。こんなことは一度もなかった。事故? いや、あの慎重なヒロシが事故に遭うなんて考えられない。それなら事件? 危険な仕事だと言っていたから、誘拐された? もしかしたら殺された? 私は、心配で、何も手がつかなかくなった。夜も、朝まで眠れなかった。彼はどこにいるの? 早く帰ってきて。心配。彼はもう死んでいるかも知れないのだ。
次の日もヒロシは帰って来なかった。私は残された彼の荷物を調べた。荷物を残していなくなるなんて、絶対におかしい。書類入れがあった。中に名刺があった。名前は本当だった。篠原ヒロシ。平凡な名前だ。それなら日本人? でもパスポートが二つある。なぜ、二つも? 国籍は日本とアメリカ。二重国籍だ。彼は日本とアメリカの二つのパスポートを持っていた。でも、それはおかしい? 日本人は二重国籍は持てないと聞いたことがあるから。ネットで調べたら、特例承認制度というのを使うと二重国籍を持てると書いてある。でも法務局で申請の時にその理由について厳格な審査があるって。という事は、彼はアメリカと特別な関係がある? 思い出した。彼は日本では私の脳の手術が出来ない理由について何か言っていた。何だったかしら? とにかく、彼はアメリカと縁がある。それで書類入れをひっくり返し、全部詳しく見てみた。ほとんど英語の書類。でも大体は理解できる。私はその中で彼の経歴について書かれたファイルを見つけた。何と、彼は本当のアメリカ人だ。お父さんが日本人でお母さんが日系アメリカ人。それで彼の顔は日本人の顔だったのだ。生まれはフロリダのマイアミ。大学卒業までアメリカに住んでいた。そして、職業も貿易商ではなく、脳科学者と書いてある。脳科学者? 所属はアメリカのワシントンにある研究所になっている。脳の専門家だったのだ。NASAとも何年か仕事をしていた。NASAは宇宙開発が専門だから、何の研究? 宇宙飛行士の脳をいじっていたとか?
ちょうど私が書類をチェックしている時、ベイルートの病院の医師と名乗る男から電話があった。私の手術をした病院だ。でも初めて聞く名前だった。私はヒロシに紹介された私の担当医師の名前を覚えていたから。この男は、私の脳に埋め込んだ装置を至急はずす必要があると言った。イスタンブールとベイルートの往復チケットを私が住む家宛てに送ったので、それでベイルートの病院に来て下さいと。私が、彼のことを聞いたら、彼は昨日その手術を一人で受けたという。何と彼はベイルートで手術を受けたのだ。つまり、彼は生きている。それはまずはよかった。一安心。でも、装置を外したという事は、彼の脳と私の脳はもう繋がっていない。なぜ? それでいいの? もっと詳しく知りたいので「なぜ一人で? どんな手術を? 詳しく教えて下さい」と頼んだけど、電話では話せないと言う。最後に「ただ」とその男は言った。
「ただ? 何ですか?」
「私たちにもわからない事があります」
「わからない事って?」
「篠原さんは手術した部分の痛みが急に酷くなったという理由で緊急手術をしましたが、手術後に彼の態度が変わりました」
「えっ、変わった? どう?」
「手術が終わったらすぐイスタンブールに戻ると言っていたのですが、もう帰れないと言い出しました」
「帰れない? なぜ?」
「あなたに何か思い当たる事はありませんか? ケンカをしたとか? 何かお二人にまずい事があったとか?」
私に思い当たる事なんてあるわけがない。こんなに心配していたのに。
「そんな。何もないですが」
彼に何があったの? 痛みがひどくなったって? 彼の態度が変わったのはなぜ? もうここに戻れないってどういう意味? 一体何が起きたの? 私にはすごく重要な問題だ。その医者は何も詳しい事を話してくれない。ただ、彼の身は安全だと言った。その事実だけを私に話すように、彼が医者に頼んだそうだ。そうだった。彼には身の危険もあった。自分の身に危険が迫る可能性があると言っていた。
「彼は命を狙われているの?」
「競争相手は多いですからね。でももう大丈夫です。私たちが必要な対策を取りました。レバノン政府が動いているので間違いありません。詳しい事は来ていただいた時にお話しします」
医者はそれだけ言うと電話を切った。私の目から知らない内に涙が零れていた。良かった。彼は死んでない。私は少し安心して、泣いた。なぜ彼が突然いなくなったのか、大体はわかった。手術の為だった。そして、すぐ戻るつもりが、手術後に何かあって彼は予定を変えた。何があったの? 荷物はこのままでもいいの? とにかく、彼は誘拐されたのでも、殺されたのでもない事がわかった。
私は、指定された日の早朝に飛行機に乗ってベイルートの病院に行き、昼前に手術を受けた。電話してきた医者が迎えてくれた。以前の担当医はいなかった。脳に埋め込んだ装置をはずす手術は簡単で、1時間で終わった。開頭手術だから私はまた何日も入院するのかと覚悟していたけど、翌日に退院できた。手術後の夕方、麻酔がさめて私の意識が正常に戻った頃、医者が私の病室に来て彼から預かっているという小さなカバンを渡された。守秘義務を書いた紙にサインを求められた。医者は30分後にまた来ますと言って病室を出て行った。カバンを開けると、そこに日本行きの片道チケットと英語で書かれた銀行の振込み用紙が入っていた。そしてもう一枚の紙があり、そこにお母さん宛てに2,000万円を振り込むと書いてある。2,000万円? 私にはとてつもない大金だ。これが報酬なの? 正確に30分後に医者が来て、質問があればどうぞと言った。
「何でも聞けるの?」
「言えない事もあります。特にこの病院とレバノン政府の詳しい関係や、篠原さんのアメリカでの仕事については。それ以外は何でも」
私はその辺の事情は理解した。それらは私の関心事ではない。
「ヒロシのアタマが急に痛くなったのは、なぜ?」
「私たちにも予想外で、正確には不明です。ただ、あなたもご存知のように、あなたの脳にも同じ装置が入っていて常にリンクし情報のやり取りをしていましたね。何かの原因で篠原さんの装置にだけ負荷が増大し、激痛として現れたようです。脳の該当箇所が腫れあがり、かなりの損傷が見られました。でも、その原因が何なのか、私たちにもわかりません。あなたの脳には、午前の手術で判明しましたが何の傷もありませんでした。正常です。私たちには篠原さんとあなたとの会話記録はありませんが、二つの装置の間で交換された情報については全ての記録があります。それも手術後に詳細に分析しましたが、原因はわかりませんでした」
そうか、情報交換の記録は全部チェックされていたのか。それでもわからない。私は考えた。ひょっとして、彼の心が降参したのか? そして、心が降参しても、彼はそれに気づかず情報交換を続けた? 或いは、気づいていたけど彼はムリをして続けた。そして或る日、突然限界が来て、心が完全に参ってしまい、悲鳴を上げた。その悲鳴が過敏になっていた彼の脳を襲い、傷をつけ、激痛を発生させた。そういう事かしら?
「もしかしたら」
私は男がどんな反応を示すのか知りたかった。
「何でしょうか?」
「私はヒロシが予想していなかった事も彼に対してやったみたいで、それも関係あるかも知れません」
「予想していなかった事とは?」
医者は興味深いという顔付きで私を見ていた。
「プライベートで恥ずかしい事なので言えませんが。テーマは愛なので。よくある話しだと思います」
「そうですね。プライベートには私たちも立ち入りません」
「あと、手術後にヒロシの態度が変わったって、どういう事ですか?」
これが私が一番知りたい点だ。
「私も驚きました。手術前はすぐイスタンブールに戻るのでチケットも買ってあると言っていました。それが、手術後に篠原さんの病室に行くと戻れなくなったと。そして、篠原さんの目つきが少し変でした。何かに怯えているようでした。身の危険はないはずなのに」
「怯えている?」
「本当のところはわかりません。ただ私は篠原さんとはもう何年もの付き合いなので、いつも快活な篠原さんが暗い顔をしているのを見るのは初めてでした。性格も変わってしまったような感じがしました」
暗い顔? 性格も変わった? 一体どういう事だろう?
「でも、ヒロシの身の安全は保障されていたんですよね?」
「それは大丈夫です。篠原さんはレバノン政府を通じてアメリカ政府の保護下に入りましたから。彼と敵対する勢力はこれを破る事は出来ません。破れば彼らの組織が潰されるからです」
「でも、ヒロシは怯えていた?」
「とにかく、篠原さんは、あなたにすぐ電話して欲しい事、あなたが病院に来たらこのカバンをあなたに渡して欲しい事を頼み、別れの挨拶もなくそそくさと退院して行きました。どこに行ったのか、アメリカに戻ったのか、一切不明です」
一番大事な点がわからない。なぜ彼は怯えたのか? 殺される心配がないならどうして? そしてどこに行ったの? 医者は不明と言ったけど、本当なのか?
お金の事は、私が日本に帰ったらヒロシが私に遺した振込用紙にお母さんの銀行の口座番号を書いて郵送するように医者に言われた。この病院の住所と医者の名前も知らされた。金額を知ったらお母さんがビックリするのは間違いない。ちゃんと説明しないと納得しないだろう。お金は私の将来の為に貯金しておいてもらえばいい。いつか役立つ時が來るだろう。
私は、急いでイスタンブールに戻った。お母さんに来週帰国しますとハガキを出した。家出してからちょうど1年。お母さんはどんな顔をして私を出迎えてくれるだろう。
3
ヒロシはどこに行ったのか? アメリカに帰ったのか? もう私を愛してないの? 荷物はどうするの? あんなに私に熱心だったのに。私も愛し始めていたのに。医者の話しの通りだとすると、精神のバランスを崩した事になる。それだと症状が進む可能性もあるわけで、その内発狂するとかの心配はないのだろうか? 大変な事かも知れない。彼の脳にだけ大きな負荷がかかっていたとすれば、彼が私の相手をできなくなったということ? つまり、私はナツコになっても良かったけど、彼はお父さんを受け入れる事は出来なかった? 私の「作戦」に気づいて、彼が怖れをなした? 口では新しい体験で面白いと言っていたけど、本心は違った? 私の「作戦」なんて、彼にも言った通り、ただもっと彼に愛される為のものだったから、彼にも邪魔にならないはずだ。でも、そうではなかった? 結局、彼が想定していた以上に私はつよい女だった? というか、彼の場合、心の容器が私より小さかっただけ?
でも、私は、これから、どこへ行けばいいの? どうすればいいの? そう思うと、私は突然息苦しくなった。呼吸が出来ない。めまいも吐き気もする。私は愛する者を失った事をやっと自覚したのだ。私は、また一人じゃないか。辛いよ。寂しいよ。ヒロシに会いたいよ。私は、この冒険で一体何を得たことになるのだろう? もしかしたら彼は本当に宇宙人だった? 精神のバランスを崩したのでもなく、私を捨てたのでもなく、アメリカに帰ったのでもなく、宇宙人として何か理由があって宇宙に帰っただけなのかも知れない。だから、またすぐに戻って來るのかも知れない。宇宙人なので私に説明できなかったのだ。とすれば、どこかにその痕跡が残されているかも知れない。よし、探してみよう。私は家の隅々をチェックした。じっとしていられなかったから、これで気が紛れる。宇宙人が出入りしそうな場所とはどこだ? 玄関? 窓? 煙突? 宇宙船で來るなら屋根から? 私は家の外に出て屋根も見た。ハシゴを架けて屋根の上にも上り、そこに座ってみた。真っ青の空も見上げた。残っているとすればどんな痕跡なのか? わかるわけがない。ムダな時間潰しだ。でもそんな風にするしかなかった。そうでなければ私がダメになる。男を失ったことの苦しみに耐えられない。私は悲しかった。帰国の日まで、私は毎日泣いていた。この家の契約の解除も私がしなければならない。彼がいなくなった家は、空虚そのもの。こんな家に居るのは辛い。思い出があり過ぎる。彼が残した荷物は全部日本に郵送する事にした。いつか渡せる日が來るかも知れない。「はい。ちゃんと預かっておいたわ」と言って、私はこの荷物を彼に渡したい。
ヒロシ。私の最初の男。私は彼のからだの隅々まで覚えている。東京駅で最初に彼に会った時。品川のホテルで抱かれた時。今日に至るまで、私は全部思い出せる。私は愛を知ってしまったのだ。でも、私が知ったのは本当に愛なのか? だって、私の愛が彼を苦しめたとすれば。私の勝手な一方通行だった? 愛って、何だろう? 考えれば考えるほどわからない。私が愛していたのは彼ではなく、お父さんだったのかも知れないし。もしそうなら、彼にはとんだ迷惑だった事になる。でも、私は知っている。私は彼を愛したのだ。
唯一の救いは、よくよく考えてみて、私の心には傷がついていないことを確認できたことだ。私は、一日中、他には何もしないで胸に手を当てて感じてみた。私の心が健康なことがわかった。一人で落ち込んでいた一年前に比べたら、私ははるかに健康で快活になっていると実感できた。嬉しい。私は大丈夫なのだ。
ヒロシは去ったけど、私に男に捨てられたという感覚はない。捨てられていたなら私は深く傷ついていただろう。そうではなく、彼の方が逃げて行ったのだ。もちろん私が彼を捨てたわけじゃない。私も捨てられてはいない。私の推測が正しければ、彼は私との情報戦に負けて撤退して行ったのだ。その為に私は恋人を失い悲しいけれど、私の心は傷ついていない。
しばらくして、私はヒロシの失踪した理由について「もしかしたら?」と思うようになった。私は彼が優しい人間である事を知っていた。最初に会った頃、彼はよく私が寝付くまでいろんなお話しをしてくれた。その後もその習慣は変わらず、私が元気を失くしている時は必ずベッドの上でお話しをしてくれた。彼は童話が好きで、世界中の童話を読んでいた。特に北欧童話が好きだった。彼は優しい人なのだ。それで、私は想像した。彼が失踪して行方不明なのは、私の為だ。つまり、私に迷惑をかけたくなかった。彼の身の安全は保証されているとあの医者は言ってたけど、それがいつまで続くかはわからない。それが保証されなくなれば、彼と生活する私にも危害が及ぶかも知れない。だって、私は彼と共犯者だった。それで、彼は私の前から姿を隠した。彼の同僚だったあの医者にもにもわからないようにして。私が知ればその伝手で彼を追うのは間違いないから。それが彼の思いやりだったのでは? 私の前から彼の存在を完璧に決す事。それが真相ではないのか? だって、彼は優しい人だったから。私の想像通りだとすると、彼は今でも私を愛してくれている。
私は、これから愛についてもっと本気で考えなければならない。愛し過ぎてもダメなのだ。例えば、右手と左手を合わせ同じ力を入れて一体として上に両手を上げる時、右手の左手を押す力が強すぎてしまうと右手が左手の上に被さり、左手は進路を塞がれて停止する。これと同じではないか? 右手は左手を愛し、左手も右手を愛し、一体として進む事が喜びなのだ。でも、どちらかの力が強すぎると関係は破綻する。一体ではなくなる。愛も同じで、私の愛が強すぎるとヒロシの愛が押しつぶされる。私が自分の愛だけに夢中になっていると彼の事がわからない。バランスが大事なのに。私の愛はこうだったのか? 彼は何と言うだろう?
4
それにしてもイスタンブールにはお父さんの気配がする。なぜだろう?
ヒロシは、最初は言わなかったけど、実はお父さんを以前から知っていた。私が「えっ!」とものすごく驚き、「なんでお父さんの写真を見せた時に言ってくれなかったの? あの時あなたは初めてお父さんの顔を見たと言ったわ」と怒ると、「いや、事情があってね」と弁解していた。一体どんな事情なの?
ヒロシがベイルートの病院に最初に行った時一人の日本人を紹介されて、それが私のお父さんだったと言った。私がそれまで彼に話していたお父さんとその日本人の特徴は似ていたし、私が見せた写真で確信したそうだ。彼の話しでは、お父さんもこの病院の非常勤医師で、一部で共同研究もしたという。まさか、お父さんも脳科学をやってたの? お父さんの拠点も彼と同じイスタンブールだって。それで一時は仲が良かったらしい。でもお父さんはすぐに次の仕事でイスタンブールを離れたという。出会いはその一時期だけで、その後の付き合いはなかったと言った。彼が「日本には帰らないのですか?」と聞いたら、曖昧に笑って答えなかったらしい。彼の話しが本当ならと、私の心は大きく揺れた。ベイルートの病院にもお父さんが来ていたとすれば、お父さんもヒロシと同じような危険な仕事をやっていたのかも知れない。そして、お父さんがイスタンブールにも住んでいたとするなら、私はまさに今そのイスタンブールに居るのだった。誰かお父さんについてもっと知っている人が見つかれば、お父さんの秘密の足跡を辿れるかも知れない。
私がヒロシと一緒にイスタンブールで暮らし始めた時、彼との愛の実験は夜の2時間だけだった。昼間は彼は自分の仕事に出かけ、私は奥さんとして家に居た。でも午後になるとヒマになるので、私は毎日外出した。彼のお勧めの街の放浪も、カフェ・イスタンブールを拠点にしてやった。イスタンブールの街並みは坂道だらけ。自転車に乗った人も時々見かけるけど、それは海岸沿いの平坦な大通りだけだ。あとは坂道の連続。さもありなん。こんな急な坂道は誰も自転車では登れない。見るのは車とタクシーだけだ。そして、タクシーは急な坂道の上りも下りももの凄いスピードで走り回っている。運転手は慣れているから平気みたいだけど、私は怖い。一度は本当に怖くて、私が乗ったタクシーが他のタクシーとぶつかった。ビックリしたけど、お互いの運転手が車から降りて来て傷を確認し、大した事がなかったからか、そして私にも何のケガもなかったからか、ニヤリと笑って何事もなかったように運転を始めた。私はトルコ語がわからないから黙っていたけど、夜彼に聞いたら「同じタクシー会社で顔み知りだったからだね。この辺のタクシー会社の数は少なくて、運転手同士はほとんど知り合いだ。しょっちゅうだよ、その手の事故は」との事。私はそれ以来イスタンブールで一人でタクシーに乗るのはやめた。歩いた方がずっといい。
私はボスポラス海峡のボートにはまった。私の家の近くに観光名所で有名な「ガラタ塔(?)」があって、そこから海に向かって下っていくと、10分もしない内にカディキョイというボート乗り場に出る。私はオデッサという名前のレストランで軽い昼食を取るようになった。ヒロシがオデッサの魚料理が飛び切り美味しいとお勧めだったから。確かに美味しい。デザートに出されるメロンの味も特別だった。日本なら最上級のマスクメロンで高い。でもコーヒー一杯の値段だった。何倍も違う。そして、道路に突き出た椅子に座って目の前を行き交う通勤客や学生をボーっと眺めているのが癒しになった。その時間だけは私は彼が失踪した悲しみから解放された。ボスポラス海峡にはウスキュダー・0000・カディキョイ・カラキョイ・エムニョイという5つのボートの港があった。私は全部覚えた。そして、何度も乗っている内にカディキョイとカラキョイの往復が一番のお気に入りになった。
そして、何度も通ったのがオルハン・パムクの私設美術館。家から歩いて20分。外見は背は高いけど普通の民家。でも中に入って驚いた。キレイに改装されて中央が吹き抜けになっていたから。1階から3階まで、全部オルハンの思い出の品が展示されている。誰もが「記念の品」を持っている。でもこれだけ圧倒的に保存しているのは、世界中でオルハンだけかも知れない。彼の本も英訳でも出ていたので読んだ。お気に入りは「私の名は赤」「雪」「無垢の博物館」の3冊。「無垢の博物館」は特に何度も読んだ。なぜだろう? この小説の主人公の恋人フュスンに自分の運命を予感したからか? オルハンの本は、一言だけ悪口を言うと、長すぎる。冗長。もっと無駄を省いたらもっと素敵になるのにと、若輩ながら思った。日本の短歌や俳句が世界で評価されるのも、「省く」や「削ぐ」の究極を行っているから? でも、それだと日本的感性からの批評に過ぎないか? どうもフュスンは実在の女で、オルハンの美術館で大きなスペースを取って展示されているドレスは彼女のものらしい。それは素敵ねと思ったら、オルハンに対する悪口も忘れてしまった。果たして私はフュスンに似た人生を辿れるだろうか? 私が着ていたドレスを私の死後に恋人が展示してくれるだろうか? 楽しみだと思った。
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