Episode 7 / 第7話 & Episode 8 / 第8話

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 その時、私は4才だった。ある日、日曜日で仕事が休みだった父がタバコを買いに家の外に出た時、私は父の部屋に入り込んで遊んでいた。その時、偶然かけっぱなしのラジオからチェロの音色が聴こえて、私はなぜか心を奪われた。帰ってきた父に聞いたら、演奏していたのはパブロ・カザルス。世界でも有名なチェック奏者だって。
「好きなの?」
「大好き」
 遊ぶのを止め突っ立ったままチェロの音色に聴き入っている私を見て、父は何か考えていたみたい。
「曲のタイトルは鳥の歌で、スペインのアンダルシア地方の民謡だよ」
「民謡って?」
「その地方に昔からある音楽。日本にも赤トンボや五木の子守唄とか沢山あるよ。アツコも知ってるよ。ちょっと待って。弾いてみるから」
 そう言って父は洋服箪笥にしまっていた自分のヴァイオリンを出して、日本の民謡だという曲を何曲か弾いてくれた。私はヴァイオリンの音もキレイねと思い黙って聴いていた。それから1週間後の日曜日。私は驚いた。父が私に小さなヴァイオリンをプレゼントしてくれたのだ。後日、私はカザルスが幼少期に音楽に目覚めたのは、彼の母が彼に送った小さなヴァイオリンがきっかけだった事を知った。私も音楽への情熱に目覚めたのは父が買ってくれたヴァイオリンがきっかけだった。父は大の音楽好きだけど、音響会社の技術者として働いている。母の話しでは、若い時にプロの演奏家を目指したものの願い叶わず、辛い挫折体験を持っているそうだ。私は3人兄妹で、上に2人の兄がいた。2人ともスポーツに夢中で、音楽には興味を示さなかった。私は逆で、スポーツは苦手。本と音楽が好きで、親しい友達もいなかったので家でも学校でも一人遊びに熱中していた。母に「お父さんは、なぜ私にヴァイオリンを?」聞いたら、「多分、あなたが音楽家になってくれたら嬉しいのよ」との答えだった。私は、父の勧めで、私が住む富士市から電車で30分の静岡市のヴァイオリン教室に、週4日、毎回2時間の練習という事で通うようになった。父に強いられたわけでもなく、ただ私には有り余る時間があったので自然にそうなった。そして、私は音楽に嵌った。

[2]

 成長するにつれ、私はカザルスの演奏スタイルに魅了されるようになり、一時はヴァイオリンを止めて学校のチェロに手を出した。彼は何で演奏中にあんなうなるような声を出すのか? 彼は何を体験しているのか? ちょうど中学1年生になったばかりで、クラブ活動で音楽部に入るとチェロをやりたい生徒がいなくて一台のチェロが余っていた。重いので家に持ち帰るのは大変なので、学校の音楽室だけで毎日練習した。そしてカザルスの伝記を読み漁った。彼の苦難と成功の物語は私に刺激になった。3年生になったある日、音楽室で一人でカザルスの演奏を聴きながらチェロの練習をしている時、自分の中に何か新しいメロディが生まれたのを感じた。「何? カザルスのとも違う。何か新しい。私の心の震え方がいつもと違う」。すぐにチェロでそのメロディを弾いてみた。でも、何度試みてもうまく弾けない。1週間が経ち、1ヶ月が経ち、状態は同じだった。悩んだ末に音楽部の担当の先生に相談すると、「あなたは小さい時からずっとヴァイオリンを練習してきたのだから、ヴァイオリンでやってみたら? 私が聴いてあげる」とのアドバイスだった。それで私はヴァイオリンで弾いてみた。驚いた。何と私が感じたメロディを表現出来ている。多分、完璧に。私は夢中で弾き続けた。からだが感動で震え始めた。涙が沢山出て来たけど、構わず弾いた。15分は経っていたかしら? 泣いてくしゃくしゃの顔のまま先生を見たら、先生も目に涙を浮かべていた。
 1週間後、先生は私を職員室に呼んだ。東京の音楽大学で教えこの学校にも時々ゲスト講師として参加する芦原という偉い先生が今日来ているので、この先生の前でもう一度弾くようにと言われた。それで私は放課後、先生の立ち合いの下、蘆原先生の前でも弾いた。うまく弾けたと思う。その感触はあった。そして、その時は何も言われなかったけど、芦原先生は私に才能があると認めてくれたそうで、推薦状を書くので高校を卒業した3年後に芦原先生が教える大学に入学するようにとの事だった。その後も成長を続けている限りという条件もあったけど、特別枠の学生として推薦で入学出来るらしい。費用は大学が出してくれる。私は家への帰り道「やった!」と叫んだ。小躍りして道を歩いた。父がこの知らせを何よりも喜んでくれた。母も泣いてくれた。

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 私は「これから3年間!」と思い、猛烈に勉強を始めた。特に、カザルスが晩年に取り組んだバッハの無伴奏チェロ組曲には注目した。なぜカザルスはバッハに傾倒したのか。それはバッハに音楽の普遍性を感じたからだ。バッハの音楽ほどほとんどあらゆる人々の心を動かす音楽はない。バッハは何らかの音楽の「普遍原理」を掴んでいたわけだ。ちょうどピタゴラスが、星々の運行を見て12音階を感じ取ったように。
 カザルスが読んだ本によれば、バッハが掴んだ音楽の普遍原理は、主に調和、対位法、そして数学的構造に基づいていた。彼の音楽は、緻密な構造を持ち、まるで数学の一部であるかのようだ。これは、バッハが音楽を、感情だけではなく、数学的・科学的な視点からも捉えていたからだ。それで私も数学の勉強も始めた。中学3年生には難しかったけど、高校と大学の数学の参考書も買って来て、独学でやった。音楽以外の科目はほとんどサボっていたから、時間は充分あった。
 始めてみてわかった事。数学と音楽はとても近い。音楽部の先生にこの感覚を私の発見であるかのように報告したら、先生はニコニコして「それって、音楽を学ぶ者の常識よ」って笑っていた。いずれにしても、私は数学も好きになった。でも、なぜかしら、数学は何だか儚いと感じた。だから、数学に近い音楽も儚い?
 そして、ピタゴラス。私は古代ギリシア哲学も面白いと夢中になった。「闇の人」という綽名を持ち、「同じ川に二度と入ることはできない」と言ったヘラクレイトス。「火の神」とも呼ばれ、「遠くに届く思想を持たない者は愚かだ」と言い、「愛」を説いたエムペドクレス。彼らは何とクールだろう。特に数学・哲学・音楽理論の分野で重要な貢献をしたと評価されているピタゴラスは、音楽の祖であり、音の周波数を発見したと言われている。彼は、同じ長さの弦を異なる張力で弾いたときに、音の高さが異なることに気づいたのである。そして、この発見に基づいて彼は音階理論を構築し、音の比率を数学的に表現したのだ。それが有名な12音階だった。

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 音楽は、ただの音の連なりではなく、感情を伝えるための強力な手段だ。音楽が世界中で愛される理由だ。だから、音楽は異なる文化や背景を超えて人々の心を結びつける。私はカザルスやバッハの音楽を愛しながらも、現代音楽・ジャズ・民族音楽にも触れた。アフリカのリズムとヨーロッパのメロディーが融合し、ジャズやブルースという新しいジャンルが生まれた。音楽のグローバルな影響力は強まるばかりで、異なる文化圏の音楽が融合して新しいスタイルを生み出すことが増えている。ヒップホップは都市文化と若者の声を代弁し、その影響は世界中に広がっている。音楽は文化間の交流を促進し、新たなアイデンティティと表現を生み出している。
特に最近は、AIの進化によって、その変化は一層加速している。デジタル音楽の登場で音楽作成の手段が大幅に拡大した。誰でもパソコン一台でプロレベルの音楽を作曲できる。また、ストリーミングサービスで世界中のどこにいても瞬時にアクセスできる。音楽とテクノロジーの融合が明日の音楽をどう変えていくのか。予測は困難であり、その可能性は無限だ。

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 そして、それにも拘わらず、重要なのは「オリジナリティの価値」は不変という点だ。誰が、どれほど「新しい音楽」を誕生させても、そこにその音楽を誕生させたオリジナルな主体が存在しない場合は、その音楽の生命は明日には消え去るのが運命になる。自分の欲望としてその音楽を維持し、成長させたいと願う者が存在しないから。特に生成AIは、この点が顕著だ。確かに、今では、どんな素人も、或いはプロも、生成AIで歴史に存在しない音楽を作曲出来るようになった。それは凄い事だ。でも、誕生した音楽はAIプログラムのバグにより発生するだけなので、一回限りで、同じ曲を再び作曲できない。ヘラクレイトスが言った「同じ川に二度と入ることはできない」のよ。だから、生成AIで作曲された曲は、コピーして保存も出来るしそれを下に新しい曲を作曲も出来るけど、その曲自体にはオリジナルな主体は存在しない。保存されたコピーを下に作曲された新しい曲も同様。つまり、作者は作曲したのではなく、バグのスイッチを押しただけ。だから、いくら生成AIを提供する会社側が「この作品は、あなたのオリジナルな作曲で、あなたの著作物です」と宣伝しても、「オリジナル」の件については真っ赤なウソ。実際、作者には、オリジナルな作品を誕生させた者が必ず体験する「納得」も、「感動」も、「喜び」も存在しない。その為に、作品は作者の創造ではないから、作者が作品をすぐに忘れる。「真の作者」にはそんな事はあり得ない。作品は作者の分身であり、心の奥に貴重な財産として大切に記憶される事になる。従って、その意味で、現代は「真の作者」にはかえって有利であり、遣り甲斐があるという事になる。「真の作者」は納得・感動・喜びを体験し、それを心に積み上げていき、その絶対的な差を強調できるからだ。
 つまり、私たちの時代のアーティストにはAIを筆頭とするテクノロジーとどう向き合うかが決定的に重要。生成AIで作曲した音楽を自分の創造と錯覚している作者は、提供している会社に騙されているだけで、作者は何も体験していない。心に何の財産も蓄積されない。その意味で、私はビョークは最初は好きではなかったけれど、彼女が「アーティストとして、テクノロジーの奴隷になるのではなく、テクノロジーを使いこなす事」を目標に活動している事を知り、注目する事になった。彼女がこの分野で、最先端を走っている一人である事は間違いない。

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 でも、私は、こんな風に燃えている頂点の時に、何と恋に落ちた。相手はあなた。私は「何でこんな大事な時に!?」と運命を呪ったけど、青春期の情熱を抑える事は出来ない。私は、音楽に燃え、恋に燃え、あなたに私の音楽への情熱をぶつけ、冒険をしたいと話し、私の全てをあなたに捧げた。あなたも私と一緒に燃えてくれた。あなたも私と同じような情熱を持っていた。だから私はあなたを好きになったわけだけど。でも、恋は台風の目。性欲は魔物。私は女として早熟だったみたい。あなたも知るように、私は「こどもが欲しい」と言い出した。それで、驚いたあなたが私から引いて、私は泣いて、全てが終わった。その延長で、不運が続き、23才の若さで私は死んだ。白血病で。無念の一言。私はあなたと再会するまでの間の53年間、あなたにも話したけど、私はあなたへの思いと音楽への情熱を抱えたまま、遠い場所でたった一人で凍結していた。氷になったオルフェウスの妻と同じ。長かった。死者には一瞬とは言え、私は53年間もあなたを氷になったままの姿で見続けて来たわけだから。

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 私はあなたのスタジオに、私たち死者だけではなく、失われた動物たちと異星人たちも来ているのがわかり、腰を抜かすほど驚いた。そして感動し、嬉しかった。私はあなたが誇らしいと思った。あなたは普通の人間のスケールをずっと超えていたから。あなたのワークショップで、私は死者の一人として、失われた動物の一人のキベと、異星人の一人のエレナと、3人でダンスをした。まるで何かの魔法の儀式のようだった。そして、3人が融合してハーモニーを形成し始めた時、私の脳が激しく痙攣を始め、つよい霊感に襲われた。中学1年生の時に最初に体験したあの時のメロディが、ダンスに刺激されて突然蘇ったのだ。私は急いで自分の部屋にヴァイオリンを取りに行き、飛んで帰って来て、皆の前で無我夢中で感じるままに弾いた。これが、私の「音楽の誕生」になった。記念すべき瞬間。恋の挫折で中断していた私の野心が、全く思いがけない形で実現した。私は、死ぬ前にも時々霊感に襲われる事はあった。でも霊感が軽すぎて形にはならなかった。それが、今回は違った。失われた動物と異星人と死者による3者の融合など、あなたのスタジオで生まれて初めて体験した。要するに、私の「音楽の誕生」にはこの体験が必要だったのよ。私の音楽は、私とキベとエレナ3者の融合から発生し、それを祝うものだった。だから、私は死ぬ必要があり、死者としてこの儀式に参加する必要があったのだ。
 そして、一度誕生した私の音楽を記録し、発展させる為には、更に高度な数学と特別な装置が必要な事がわかった。だって、普通の世界とはもう全く違う世界に私はいるのだから、それも当然と理解できる。具体的には、私とキベとエレナの3者は3つの異なる余剰次元に所属している。そして、3つの余剰次元は少しづつ膨張し移動する空間であり、このスタジオでは、それがあなたの功績の訳だけど、これら3つの空間が絶え間なくお互いを求めて交差を繰り返している。普通は3つの空間がこんな風に集合する事はなく、遠く離れた場所で疎遠なままだ。そして、私の音楽は、これら3つの空間の交差の様子を数学的に、12音階の変化として記述する事で誕生する。だから、私がこの音楽を発展させる為にはその交差の最新情報を作曲に使う必要があるという訳だ。
 それであなたに相談したら、数学については『宇宙と宇宙をつなぐ数学』という本を読んでみたらというお勧めだった。スタジオの本棚にあったので早速読んだわ。望月新一という天才と言われている数学者が提唱する「宇宙際幾何学」を解説する本で、まるでわからないのになぜか面白くて夢中になった。こんな奇妙な事を考えている人間が存在している事自体、あなたが生きる世界の豊かさの証明ね。装置については、あなたも見当がつかないと言い、ただローリー・アンダーソンが参考になるかも知れないと教えてくれた。それで早速調べた。そして、「えっ!」と思い、たちまち好きになった。望月新一も凄いけど、彼女も凄い。彼女は自分のヴァイオリンから男の声を自分の腹話音として出したくて、それに必要な装置を自分で作ってヴァイオリンにセットして演奏を始めた。それで、マスコミや批評家たちからテクノロジーの旗手と騒がれ、たちまちブレークしてスターになってしまった。ちょうど時代に合っていたのね。それで私も今、装置づくりを始めた。彼女と同じだ。私に必要な装置は、このスタジオにも、世界のどこにも無い事がわかったから。工作やプログラムなんて、私には初めての体験だ。こんな事になるなんて予想もしていない。中学生の時に数学だけではなく工作やテクノロジーの勉強も始めていた事が、今になり役立った。すごく楽しいわ。

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