SPECIAL EHIBITION
/ 特別展 November 1-30 vol.5

Part 5; From Information to Experience
/ 第5部; 情報から体験へ
Chapter 1; “New Me” in the internet world
/ 第1章; ネット世界の「新しい私」
Chapter 2; Informatization of Body Knowledge
/ 第2章;身体知の情報化
Chapter 3; Body-Space Model
/ 第3章; 「身体-空間モデル」
Chapter 4; From Information to Experience
/ 第4章; 情報から体験へ
…………………………………
Chapter 1; “New Me” in the internet world
/ 第1章; ネット世界の「新しい私」
Section 1; What is Information?
第1節; 情報とは何か?
[1]
In my case, it was through the 1996 Beirut experience that I felt truly awakened to “information.” There, I got the information, “There are 10,000 jobs in Beirut. Does anyone come?” Of course, such information was not available in Japan. Usually, symbolically, 1,000 artists rush to the world’s cultural cities of Paris, London, Berlin and New York every year, and only about 10 pass. 990 people are disappointed and return home. However, as Beirut is called “Little Paris,” many young people speak French and English, have a high level of culture, are active in art, and have a strong criticism. If the purpose is not to become famous, but to do the work we want to do, 10,000 employment will be a big charm.
私の場合、「情報」に真に目覚めたと思えるのは、1996年のベイルート体験を通してである。そこで私は、「ベイルートにアーティストへの1万の雇用あり。誰か来ません?」という情報を得た。そんな情報は、もちろん日本では得られなかった。通常、象徴的に言うと、毎年1000人のアーティストが世界の文化都市パリ・ロンドン・ベルリン・ニューヨークなどに押しかけ、合格するのは10人程度。990人は失望し帰国する。しかし、ベイルートは「小さなパリ」と呼ばれているように、若者はフランス語と英語を話す者が多く、文化レベルは高く、アートも盛んで、批評精神も旺盛である。目的が有名になる事ではなく、自分がやりたい仕事をやる事なら、1万の雇用は大きな魅力だろう。
[2]
In Beirut, I learned that even though the internet is full of almost infinite information, it is almost same information that comes from a limited perspective. Regarding Beirut, only one aspect of being a politically and economically confused city is emphasized, and the actual situation is unknown. And what if there are more and more such cities around the world now?
私はベイルートで、ネットにはほとんど無限の情報が溢れているといっても、それは限られた視点から発信された同じような情報ばかりである事を知った。ベイルートについては、政治的にも経済的にも混乱した都市という一面だけをジャーナリズムは強調し、文化は豊かである事、人々はどんな思いで毎日を生きているか、その実情は知られていない。そして、いま、このような都市が世界中でどんどん増えているとすれば?
Chapter 2; Informatization of Body Knowledge
/ 第2章;身体知の情報化
Section 1; Theme of speaking in the language of Science
/ 第1節; 科学の言葉で語るという課題
1 Informatization of Body Knowledge
/ 身体知を情報化する
[1]
「私」という存在は、環境との間で、どんな情報のやり取りをしているのか? 「私」は情報を担う存在であると共に、「私」が情報から構成されている。私自身が、私の性格も、私の体格も、遺伝子情報や生体情報などの多くの情報から構成されている。呼吸したり、食べたり、汗をかいたり、排泄したりすることで、私の細胞も日々刻々と入れ替わっている。
[2]
知らない人間と出会い、新しい仕事をし、未知の都市を旅することで、私の記憶も日々更新されている。生存に必要な情報や危険情報に注意することを含め、私は一刻も休むことなく外部と情報のやり取りを続けている。ネットで私が得る情報も、ネットで私が表現する情報も、このような広大な情報のやり取りの一部の外部情報の入力と出力にすぎない。
[3]
そして、細胞レベルでの情報のやり取りも含めて、一切の情報のやり取りの刻々の結果として、私もそうであるように、すべての人びとが、自分と周囲に対して快・不快の感情をもち、否定と肯定の意志をもち、自分と周囲に対して同意したり拒絶したり、多様な切り口をもって改善要求や誘惑や愛の思いを発信している。そして、このような情報交換の基地として機能しているものが、身体であり、脳である。
2 What would happen if we could visualize body knowledge?
/ 身体知を可視化できると何が起きるだろう?
[1]
身体は、環境との間で、全体としては何をやっているのか。身体と環境の関係は、私たちが想像する以上に、動的で親密である。このような身体と環境の間の親和的関係を情報化し、可視化できるとすると、一体何が起きるだろうか?
分子生物学の巨大な発展も、1953年のワトソンとクリック等によるDNAの可視化からはじまった。それまでは、DNAの存在は直観的に、あるいは神秘的に語られていただけで、誰にも見えず、分子生物学も生物学の一分野を形成していたにすぎなかった。しかし、この可視化により、まさに誰もが驚く大変貌を遂げたのである。身体と環境の関係も、情報化され、可視化されたら、同様にして大きく変化するものがあるはずだ。
[2]
まず、身体を環境から切断しても身体として扱うことができるとする間違った知見と、それに基づく科学技術とデザインは、それらのすべてが変更を求められ、大きな転換を迫られる。そして、生活の中で切り捨てられていた多くの視点も重要な要素として甦る。そして、このような転換から期待される成果が、今後の世界を変え、現状を変化させていく新しい推進力になる。
私がここで求める情報化とは、身体と環境の間で行われている情報交換の様子を「身体知」として捉え、この「身体知」を「新しい科学の言葉として表現する」ということである。それがこれまでと同様の芸術・宗教・科学の言葉で表現されている限り、求める情報化は達成されない。したがって、「身体知は言葉で表現できないので手をつけることができない」と言っている内は駄目なのである。「身体知」は語ることができないとする立場は古いものになる。語ることができないものを語る努力から新しい科学が誕生する。
[3]
たとえば、もし私が豊かな身体知をもつダンサーで、介護が必要な老人の身体をやわらかく扱うのが特別にうまいとする。そのとき、ロボット開発者が私のもつ身体知を情報化すれば「老人をやわらかく持ち上げることができる介護ロボット」をつくれると思い、私にコラボレーションを申し込んだとする。そのとき私が、「すみません。この身体知は私だけの宝で、秘密です」と言ったり、或いは「身体知は語ることができず、語ることができないものとして扱う必要があり、そこにこそ身体知の価値があります」と言って拒んでいれば、新しいことは何も始まらない。
逆に、私がコラボレーションを受け入れ、困難を乗り越えて目的とするロボット開発に成功したとすれば、この介護ロボットは量産され、世界中の多くの老人たちの期待に応えることができる。拒んだ私の場合は、老人を手助けするとしても、自分が出かけて一人一人と対応していくしかないので、その老人の数は限られている。
[4]
もちろん、当然ながら、誰も何の装置や方法もなく、手ぶらで身体知を情報化することはできない。私たちは、そのためにスペースチューブという装置にこだわり、スペースチューブとそのなかで動く人間の身体の関係を可視化するために必要な『身体・空間モデル』の概念に辿り着いた。スペースチューブと『身体・空間モデル』が、私たちにおける身体知を情報化するための装置と方法である。
私たちがスペースチューブにこだわるのは、それが人びとがもつ身体知を情報化するための最適な媒体になるからである。スペースチューブの中では、個人が秘密にしていたり、或いは自分でも気づかずにいた身体知が、その動き方により、自然に表現されてしまう。したがって、表現されているものを顕在化し解読する方法として『身体・空間モデル』を確立できれば、身体知の情報化は達成される。
[5]
ダンスを例にとれば、ダンスの場合では、基本的に、スタート時には力づよいが20分もすれば力を失い終息に向うダンスと、逆に、はじめは虚弱で目立たないが次第に力を増し20分後にはスタートの状態からすれば信じられないほど活性化されていくダンスの、二通りがある。いわゆる「疲れるダンス」と「疲れないダンス」である。
その時、それぞれのダンスでは、「身体と環境の関係」はどうなっているのか。身体をどのように扱えば、そのような差が生まれるのか。この点が、ダンスの場合の興味深い情報化の対象になる。一般的な批評では、欧米のダンスが「疲れるダンス」に属し、日本の舞踏やアジア系ダンスやアフリカンダンスが「疲れないダンス」に属する。前者には筋肉質の圧倒的パワーが必要になるが、後者はひ弱でもよく、その代わりにエネルギーのたくみな増殖方法が必須の技術として求められる。
[6]
いま、両者の身体知を可視化できると、その差から何がわかるだろうか。そして、その成果は何に使えるだろうか。
超スローな動きや静止も含む日本の舞踏などの後者からは、環境対策にも有効な、エコロジカルな効率的な身体の使い方に対するヒントが得られるはずだ。「疲れない生活」などの、「新しい身体生活のデザイン」を形成するためのユニークなアイデアが得られることも間違いないだろう。
Section 2; In a case of Japanese Butoh
– Why did Western critics pay attention to Butoh?
/ 第2節; 日本の舞踏の場合~欧米の批評家はなぜ舞踏に注目したか
1 舞踏は「立ち上がった禅~Standing ZEN」である
[1]
私は、20代から舞踏家として活動し、21世紀に入ってから舞踏のエッセンスを活かしたスペースダンスをはじめたが、舞踏にはアニミズムをはじめ、日本人の農耕民族としての身体的習慣や仏教的思考からの影響がつよく生きている。
2001年にニューヨーク国連本部でスペースチューブを使用して公演した際にも、担当のロシア人ディレクターが日本文化に詳しいことも関係していたと思うが、「日本人ダンサーの身体と空間に対する感性は、仏教的なセンスも想像させ、素晴らしい」と評論された。私は、特定の仏教の信者でもなければ仏教を正式に学んだわけでもないが、大乗仏教の龍樹(ナーガールジュナ)には特別の親しみを感じ、作品をつくるときにはよく龍樹の言葉を参考にしている。仏教の教えの核心が「形(フォルム)」に対するものではないとしても、舞踏家として仏教を見たときに、形に傾倒しつつ形への執着を脱する方法を説く教えとしても解釈できるため、面白いからである。
[2]
舞踏を「立ち上がった禅~Standing ZEN」と批評したのは、私の知る限り、フランスのイボンヌ・テネンバウム(批評家・パリ)である。日本の舞踏は欧米人にはまさに新しい仏教の一勢力として「立ち上がった禅」に見えたようで、舞踏にはタブーに挑戦し世界に立ち向かうというつよい姿勢があるため、このような動的な表現は絶妙である。
次の文は私の舞踏に対するイボンヌ・テネンバウムの批評であるが、ここにも人間にとって普遍的な「自我をどう脱するか? 自我とどうつきあうか?」という課題に対するつよい関心が見てとれる。そして、私の場合だけではなく、多くの欧米の批評家が日本人舞踏家たちに対して、このような仏教哲学を参照したかたちでの批評を残しているのである。
「日本の舞踏は欧米の視点からは異例の出来事であり、稀少価値が高い。福原のダンスの特徴は、自己のダンスの経過を聴きつつダンスする、という点である。つまり、この舞踏家は、「自我としての主体」とは異なる「空間としての主体」という新しい位置を獲得している。この「空間としての主体」という観点こそ、今後の芸術や文化全般において重要な役割を形成することになる新しい哲学であるため、舞踏の重要な今日的な宝なのである。」(『西欧とアジアの芸術』パリ第八大学 1994)
[3]
舞踏が、1970年代後半からフランスを入り口とした欧米文化に「発見」され、「BUTOH」として再生を果たすことができたのは、ちょうど欧米文化が自らの成熟に飽き、エスニックなものを求めていた時期と重なっている。舞踏の動き方や自我に対する態度や空間形成の方法は欧米のダンスとは大きく異なるため、その点が彼らの関心を引いたわけである。
欧米の他にも、中東での珍しい批評としてフセイン・ビン・ハムザ(アンナハール紙/ベイルート 1996)の次の新聞記事があり、ここでも「フォルムとの距離のとり方」についてつよい関心を示している。
「この夜、福原がベイルート劇場で演じたダンスは、われわれアラブ人には衝撃的な体験だった。それは、この夜の福原が、一目でダンスの素晴らしいテクニシャンであることを感じさせながら、フォルムに対して驚くほど淡白で、個々の動きに感情移入することなく、明確な距離をとっていたからである。」
2 ダンスにおける身体の客体化
[1]
たしかに、舞踏においては、海外の批評家たちが指摘するように、身体を客体化できるほど、つまりフォルムに対して淡白であるほど、自由に動ける。それは、身体をぬけ出して身体を自由に操作している感覚だ。その身体はまさに「異物としての身体」。そして、その身体を、冷静な「心」が身体の外部から見つめている。この冷静な「心」が、身体を自由に扱うのである。
したがって、この「心」こそ、イボンヌ・テネンバウムが言う意味での「空間としての主体」、つまり「空間に住む私」であり、龍樹が『中論の頌』において説く「空(くう)」を実現する主体であると、私は思う。そして、驚くべきことは、「そのときに身体に満たされるエネルギーがすごい!」ということだ。使えば使うほどエネルギーが雪ダルマのように膨張するからである。それは、エネルギーが身体と環境の間を大きく循環するという感覚であり、このような空間との一体化は人間を劇的に変化させる。「疲れないダンス」が成立するのも、このときである。
[2]
ただし、たった一つでも動きに執着した途端、このエネルギーの循環回路は絶たれてしまう。一挙にダンスの力は衰退し、エネルギーは消費されて枯れはじめ、新鮮さを失う。どんな動きにも執着しないからこそ動きが動きを呼び寄せ、多様な動きの世界が展開される。まるで動き自体に、どうしてもそうしたい理由があるようだ。つまり、「心」を形として展開するが、形には執着しないことで形を更新し、更新される形によって「心」を時間の岸辺に沿って前方に運んでいく、というあり方である。
たしかに、形に執着しないことは難しい。愛する思いがつよくなり、そこに立ち止まりたいからである。しかし、執着しないことで、さらに思いがけない形の世界が現れてくる。愛する相手も、多様な形の世界その先で、思いがけない姿をして私を待っているようだ。そこに留まるのか。或いは、その先に行くか。まさに精神の力と欲望のあり方が試される世界である。
[3]
そして、この体験は観念的で無機質な感覚に満たされたものかと言えば、まったく違う。これほど多様な感覚や色彩や記憶や生命感に満たされる体験は、他には存在しないだろう。まさに、世界が一瞬のうちに一新される至福の感覚である。
ダンサーはこの感覚が得たくて、毎日身体の使い方を工夫して、何度でも踊る。身体を動かさなければ形はできず、形のないところでは「心」も躍動しない。ダンスを観る観客にも、その様子はよく理解できる。優れたダンサーほど、形に執着せず、空間に住み込み、濃密な感覚と記憶に満たされた空間とともに踊るからである。そのときに動いているものは、ダンサーの身体ではなく、身体を包摂した空間である。観客は、身体ではなく、そのように祝福された空間を見ているのだ。
この「空間とともに」という感覚が大変に楽しい。そのために私たちは、その楽しさをふつうの人たちにも体験して欲しくてスペースチューブの開発を続けている。スペースチューブはふつうの人を即席のダンサーにする装置だからである。
3 スペースチューブ体験における身体の客体化
~「心」が発生する現場を体感する〜
[1]
スペースチューブ体験の一番のお勧めは、一般の人たちに「空間とともに動く」という感覚を味わってもらうことである。
スペースチューブの中では、体験者はスペースチューブと一体化できる。何度もスペースチューブに入り、馴染むことで、その大きさも、ロープで空中に浮いているスペースチューブの強度も、知覚できる。スペースチューブは体験者の第2の身体になる。つまり、自分がスペースチューブとして拡張された感覚で動ける。そのときに、注意して自分の「心」を検証してみれば、その「心」が増幅された「新しい心」として目覚めていくことに気づくのである。
[2]
たとえば、脳科学者の入来篤史(理化学研究所脳科学総合研究センター)は、「心」の発生について次のようなユニークな仮説を立てている。
「様相が一変したのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになります。自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」というものではないでしょうか。」(『脳研究の最前線』講談社 2007)
以上は、脳にとって、客体化されていない身体を動かすためには脳機能の変化も「心」も必要ではなかったが、客体化された身体を動かすためには脳機能の変化と「心」が必要になったという素晴らしい議論である。
[3]
スペースチューブの体験者も、自分の身体とスペースチューブを連続させることで両者を「新しい身体」として客体化し、その身体を動かすために脳を新しく刺激し、「心」を増幅させる。そうしないと、拡張された身体を動かせないからだ。
さらに入来は、ヒトの祖先は、他者の「心」も、自分の客体化された身体と同様に「動かす対象」として扱うようになり、そのために自己の「心」と他者の「心」との相互作用として「心の理論」が形成されはじめたと推論している。このような入来の考えは、私たちにとっても大変に面白い。私たちは、体験者が「心」が発生する現場を体感することを通して、その成果を多様なコミュニケーションに応用することをめざしているからである。
[4]
今後の世界を生きる人びとが、歴史上に存在しなかった「新しい他者」に次々に直面し、そのような他者との関係の親和性について、誰かに教えてもらうのではなく、自分の感覚で判断しなければならなくなることは間違いない。
そのときに、「身体の客体化」という体験が役立つ。「心」が発生するとすれば、自分とそこに存在する「他」との間に、その「他」が、スペースチューブのような空間であれ、他者の「心」であれ、ロボットのような機械であれ、遺伝子テクノロジーによって改造される生体であれ、ネット空間に存在するアバターであれ、ひとつの親密な関係が誕生するということである。逆に「心」が発生しないなら、そこには親密な関係は誕生しないとがわかり、その関係は大切ではないことになる。
[5]
イボンヌ・テネンバウムは日本の舞踏に欧米の自我とは異なる「新しい心」の誕生を見たわけだが、そのような「心」による「身体の客体化」という新しいレッスンは、広く現代人の必須のレッスンになっていく可能性がある。スペースチューブも、「立ち上がった禅」のように立ち上がり、人びとが直面する「迷い」から人びとを救い出すツールに成長するかもしれない。
Section 3; What is Body Knowledge?
/ 第3節; 身体知とは何か?
1 Architecture has also begun to make new claims
/ 建築も新しい主張をはじめた
[1]
建築の場合も同様である。世界には、大別して欧米建築、日本建築、アジア建築、中東建築、アフリカ建築などがあり、周囲の環境との関係の仕方は、外見上の構えも、風・光・音などの自然の要素の流通のさせ方も、電気・水・ガスなどのライフラインの使用法も、大きく異なっている。
全体的にはダンスの場合と同様で、アジアやアフリカの家の方が、見かけは簡素で貧弱に見える場合があっても、欧米の家よりも環境との対話性にすぐれている。それは単純に貧富の差の反映ではなく、世界のそれぞれの建築が相手にしている周囲の環境と文化的身体の差であり、身体と環境の関係の仕方の相違がそのまま反映されている。したがって、建築の場合も、この差を可視化できると、一体何が見えてくるだろうか。
[2]
コルビジェやミス・ファン・デルローエが近代建築を確立し、身体と空間の関係を確定して以来、建築は身体に対して必要な配慮を行うことに成功してきた。しかし、ひとつの大きな時代が終り、ここにきて、建築もまた身体に対して新しい対応を迫られるようになってきた。それは、思いがけず、身体の側が新しい主張をはじめたからである。そのために、身体を入れる容器としての建築も、容器であることの反省も含めて、新しい対応をせざるを得なくなってきた。
→「身体の側の新しい主張の例題を」。
[3]
建築家・伊東豊雄も、古来より人びとは自然という流動する空間のなかに生活の場を設定してきたこと、建築の行為はこの流動する自然と相対的な関係を生み出す作業であったことを指摘し、次のように書いていた。
「しかしいまや建築行為は流動性とは無縁に切り取られ、閉じられた部屋を結び合わせる作業と化してしまった。身体はこの静止した部屋なかに息づくこともなく閉じ込められている。」(『アンダーコナストラクション/仙台メディアテーク』NTT出版 2001)
相手にすべき身体が明確で、その要求もそれほど強くないおとなしい身体で、近代建築が身体に対して一定の力を発揮できているうちは、伊東のこのような発言はそれほど注目されることはなかったはずだ。しかし、今では身体が黙っていないため、このような主張がじわじわと力を持ち始めている。
[4]
デザイン評論家の柏木博も、「心地よい装置や空間のデザインとはどういうものか。たとえば、私は子供の頃、柳行李に座布団を入れてその中で本を読みとても楽しく心地よいと感じた。誰もが体験しながらそれをいえないのは、それを意識化してこなかったからではないか」と書いている。
このように、柏木のような思いが今になり湧き出てくるとは、どういうことか? それでは、それまで建築やデザインがやってきたことは何だったのか、ということになる。いずれにしても、それらはこれまでの時代の要請に対応してきたものであるということで、今後の時代のものではなく、建築やデザインがいま大きな転機を迎えていることは確実なようだ。
[5]
平面がない曲面のみだけで構成されたまったく新しい空間を岡山・岐阜・東京につくって世間を驚かせ、「これから人間はここに住んだ方がいい」と言っていた美術家・荒川修作の仕事も、その先陣だったのだ。
→「写真と荒川論を」。
[6]
これから、建築は、伊東が提案する流動的空間を内包した形式で、居心地のいい空間の建築に乗り出していくことができるだろうか。
スペースチューブもまた、ここで求められている「新しい空間」に対するひとつのヒントであることは間違いない。ダンスからの提案としてスタートしたスペースチューブにも、バウンダリー・オブジェクト~「境界」に存在するオブジェクト~としての地位を確立する一方で、ここにきて今向うべき三つの方向が見えてきた。それは、身体に向う方向としての「新しい衣服」であり、モノに向う方向としての「新しい家具」であり、空間に向う方向としての「新しい家」である。
[7]
いずれにしても、現在のスペースチューブがそのままでは求められる新しい衣服や家具や家ではないのは当然であるが、それに至る貴重な媒体の役割を果たすことは間違いないだろう。スペースチューブは伊東がいう意味での「流動的建築」そのものであるからだ。身体の動きがスペースチューブの空間の形状を決定し、身体と空間が一対一の関係で対応するために、体験者に理屈ぬきの「なつかしい感覚」を与える空間。体験者たちはスペースチューブを「居心地のいい空間」といい、その中で安らいでいるといいアイデアが湧いてくるという。たとえば、体験者が残した次の感想があり、ひとつの予感を端的に表現してくれている。
生まれる直前って、こんな感じ?
お母さんのおなかの中にいるみたい
ずっと入っていたくなりました
家にあったら楽しい
ハンモックとはまた違う浮遊感
裸で入ったら気持ちいいかも
スペースチューブは、来るべき衣服・家具・家などの手前に位置して、私たちを呼んでいるのである。今後は、スペースチューブを、近代建築やデザインとは違う手法を採用することで、どんな新しい建築やデザインとして展開できるかが面白いポイントになる。
[8]
さらに、吉岡の場合は繊維だが、たとえばエアロジェルという固体と気体の中間のような新素材を建築に使用するとどうなるだろう。空間概念が一変することは間違いない。スペースチューブもエアロジェルでつくってみれば、きっと面白いことになる。エアロジェルがいまだ開発段階の素材のため需要は少なく高価であることは承知している。
しかし、それは宇宙エレベーターの素材として期待されているカーボンナノチューブが高価な場合と同様である。人間は、このような困難は技術的課題としていくらでも解決してきた。エアロジェルのような固体と気体の中間の素材を使用できるなら、いまスペースチューブが東レの強化繊維の使用で暗示的に表現している「新しい感覚」を、もっと実体的に表現できる可能性が出てくる。建築にもこのような「新しい感覚」を導入することで、一大革命が起きるはずである。
[9]
現在も世界的に注目されている理論物理学者リサ・ランドールは、著書『ワープする宇宙』のなかで余剰宇宙論を展開し、五次元宇宙が私たちの四次元宇宙に紛れ込んでいるかもしれない可能性を、たくみな比喩を使って説明している。そして、五次元宇宙はSFが描いてきた世界と似ているかも知れないといっている。
スペースチューブの素材と構造を改良していくと、リサ・ランドールにならい、私たちがスペースチューブの中で感情移入も含めて体験している感覚を現実化できる可能性が出てくるだろう。伸縮性・透過性・形状記憶性などの機能が改善されるだけでなく、スペースチューブで体験できる「懐かしさ」の感覚も、もっと記憶が泡立つように感覚的に表現できる。情報技術も導入することで、実際にスペースチューブの向こう側から体験者にとっての「懐かしい人」がやってくる感覚も表現できる。動物たちに対する追想も、彼らが住んでいた空間も含めて、もっと触覚的に体験できるようになるかも知れない。
2 Collaboration between Body knowledge and science & technology is required
/ 身体知と科学技術の協同が求められている
[1]
しかし、なぜ、このような身体知は科学技術から遅れるという運命を辿ってきたのか。それにもたしかに理由があった。佐倉統(東京大学大学院情報学環助教授)は、私たちの2006年のJAXAとの共同研究の中で次のように述べていた。
「身体知が後追いになるという現象は、人工知能でも技術開発でも、歴史を見れば明らかであり、人間がいかに頭でっかちの存在かということの典型であり象徴でもある。はじめは一緒だったものが、普遍化できる部分からやって行こうということで、論理や数理がまとまってくると、身体知が遅れはじめる。そうすると、これはいかんということで、ダ・ヴィンチなどが出てきたりして、回復がはじまる。ロボット開発の現場でも、知能と身体が不可分であるという認識は常識になりつつある。科学技術は全知全能ではないわけだから、その点において他方の側が重要なことをいっていると感じられる場合には、多くの場合それは芸術家や感性的なことをやっている人たちが言い出すわけだが、そのときにはそれを聞く耳をもつ必要がある」。(『身体知が後追いになることの科学論的意味』 2006)
[2]
たとえば、当時マイクロマシンを開発していた藤正厳(元・東京大学先端科技研センター教授)は、ある研究会で私と議論になり、「脳だけで生きられる可能性」について主張し、この脳には身体も足も不要のため私の心配も不要といっていた。
しかし、この主張は、藤正が属する科学の世界では矛盾がないように見えても、身体知の観点からすれば完全に間違っている。身体と脳を区別して、「脳だけでも生きられる」という発想自体が根本的におかしい。仮に、物理的に脳だけの状態を形成できたとしても、地球上に存在する限りは、この脳も必ず地面と接するので、その接触面が「足」になるからである。
「足」とは、いまある「足」だけがそうではない。重力と接し、重力との関係を調節して必要な姿勢を形成するための身体の部位を「足」と名づけている。だから仮に脳だけになった脳でも、必ず「足」をもつ。或いは、その接触面が「足」になる。これが身体知による理解である。
[3]
したがって、逆に、たしかに重力が存在しない宇宙環境では、そのままほっておけば、人間の身体からはやがて「足」がなくなる。重力がなければ、重力との関係を調整するための「足」も不要になるからだ。つまり、無重力環境で生活する人間は、やがて四手人間に向うことになる。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。
四手人間とは何か? 二足歩行がもたらしてくれた人間の大きな脳を支えるための身体的構造を失い、新しいタイプの爬虫類の状態に戻ることではないのか? しかし、少なくともこれまでの科学の知では、このような問いに答えることがまったくできない。そんな状態では、これまでの科学技術に宇宙環境における私たちの生活デザインを任すことができないのは当然である。
[4]
そして、怖いのは、以上のような議論の延長から、間違った脳の改造プランが容易に出てくることを想像できることである。実際、それが宇宙環境において、またこの地上においても、予想されるもっとも深刻な「脳問題」を発生させることになる。
3 New “brain problems”
/ 新しく発生する「脳問題」
[1]
まず、無重力環境では人間は「宇宙酔い」になる。無方向になるために、単純に脳が混乱するからである。
さらに、同じ無重力の部屋に10人の人間が浮遊して存在している場合には、脳がアタマのある方向を「上」と認識することから、10人分の「上」がひとつの空間に同居してしまう。この状態は、一人の時に体験する「宇宙酔い」にも増してもっと本質的に気分が悪いはずである。
特に訓練を受けていない一般人が長期宇宙滞在をするようになれば、一時的に無重力状態でプカプカ浮いているのが楽しいと感じる時期を過ぎてしまえば、それに気づいた途端に、精神的におかしくなる者が続出する可能性がある。脳は発狂するか、昏睡状態に陥るか、何らかの機能停止に陥るかもしれない。これは、身体劣化よりもさらに深刻なテーマである。
[2]
現在の宇宙開発の段階でこの問題が「深刻」として認識されていないのは、いまだ訓練された宇宙飛行士たちしか宇宙環境に行っていないからであ。お互いのコミュニケーションに何の問題もないと考えているのも、お互いが了解し合った仲間同士だからにすぎない。
しかし、現実の地上の人間の世界はそうではない。どれほど努力しても、相手が何を考えているかわからず、まったく通じ合わない世界が無数に存在する。そのために無数の対立があり、無数の戦争がある。地上は現在も民族や宗教の違いによる人間同士の大きな憎悪に包まれている。それでも地上の人間には、まだしもお互いが同じ地表に二足歩行で立っているという共通の地盤がある。相手が憎悪の対象だとしても、お互いが異星人であるという認識はない。
[3]
それが、無重力環境ではこの地盤も奪われることになる。さらに混乱に拍車がかかるのではないか? 異星人としか思えない地球人も出現してしまうかもしれない。二手二足の人間と四手人間の抗争も、冗談ではなく想定できる。このようなまったく想定外の事態が起きるとすれば、仲間同士の宇宙飛行士たちによる現在の宇宙での実験結果が将来の宇宙政策作成のための有効な材料として使えるとは思えない。
[4]
たとえば、欧米人のキリスト教徒のようにアタマの「上」の方向に「神」が存在するとすれば、人数に応じただけの「神」が存在することになり、これまで聞いたこともないような奇妙な宗教的対立がはじまるかもしれない。宇宙飛行士の何人かが証言している「神秘体験」も、無重力環境での「無方向性の体験」が後押ししている可能性が高い。360度の方向に「神の遍在」を感じるからだ。しかし、宇宙にはこのようなキリスト教世界を生きる欧米人だけが進出するのではない。
[5]
したがって、以上のような理由から、「宇宙酔いを防止するために」などの理由で、脳の混乱を防ぐために、脳の改造論が出てくることもきわめて自然である。無方向のために昏睡したり、アタマのある方向を「上」と感じる脳の機能を変えてしまえば、「脳問題」は解決する。
しかし、このような改造は、倫理的に許されるのかという問題以前に、実際に可能になるだろうか。脳もまた、身体の一部として、重力環境のなかで進化を遂げてきた要の神経系であり、地上環境と分離できず、方向の察知はまさに脳の基本的機能のうちのひとつである。それが無重力環境ではうまく機能しないからといって改造してしまえば、先に述べた「土」のない中空に投げ出された「身体=木の根」の例と同じであり、すぐに枯れてしまうはずだ。
[6]
このような問題をどう解決すべきか。そもそも、どうしてこのような「脳問題」が発生してしまうのか。答えは明瞭である。すべては身体に対する認識が充分ではないからである。あるいは、科学の知と人文科学の知が相変わらず乖離したままであるからである。身体知が欠けていることの決定的証拠がここにあるといえる。
[7]
たとえば、チップ・ウォルターも『この6つのおかけでヒトは進化した』(早川書房 2007)のなかで、脳改造について次のような楽天的な物語を語っている。
「無数のニューロンがひしめく脳のなかにナノマシーンを送り込めば、知性を高めることもできるだろう。想像力もしかりで、強化していない現状の脳では思いもつかない発想を得ることができる。やがて、人間は完全なデジタル生物になるだろう。脳は分解・再構築されて、現在よりもはるかに強力なデジタルバーションになる。人類は別の種に進化するといってもいいかも知れない。私たちはもはやホモ・サピエンスではなくなり、サイバー・サピエンスになる」。
このような楽天性も、典型的に身体に対する認識の欠如、身体知の不足からきている。
[8]
チップ・ウォルターのこのような表現はかなり軽薄であるが、この構造のままどれほど表現に凝ったとしても本質は変わらない。脳だけを見ていると、このような空想はいくらでもできる。しかし、現実の脳は環境との不可分な関係性のなかで生まれその環境の中を生きていて、このような世界とは無縁である。身体と環境の関係に踏みこむことなく、脳だけを改造できるという事態がありえない。
仮に人類がデジタル生物になるとすれば、その場合には現在の人工物世界をはるかに超え、環境もデジタル環境になっている必要がある。身体と環境は切断できず、つねに一体であるからだ。しかし、自然や宇宙という環境をどうやってデジタルにできるのか。
[9]
もし、チップ・ウォルターが空想するように脳を扱うとすれば、まったく期待に反した出来栄えで、改良された脳は周囲の環境に置き去りにされすぐに萎縮をはじめることは間違いない。生物アートの世界で、耳の遺伝子を腕に移植し新しい耳を誕生させて喜んでも、腕には耳が必要ないため、数日で耳としては消滅する運命にあるのと同様である。つまり、そのように改良された脳は簡単に死ぬのである。
脳改造の成功は、実現されるとしても、このような楽天性とはまったく違う別の物語になるはずである。
Chapter 4; From Information to Experience
/ 第4章; 情報から体験へ
Section 1: Evolution of Information Space with Mixed Reality
/ 第1節; 拡張現実によって進化する情報空間
[1]
We design “Change in Space” using Augmented Reality. For example, with Extended Reality and Hologram I try to digitize a former “Lover” who died prematurely, then I try to appear her as a hologram in my room and talk with her. Or, I try to appear “Dinosaur” that I want to see directly, instead of TV of Film, in my room. Also, I try to create the appearance of flying in the air outside my window.
現在のデジタル技術の進化により、私たちは近く拡張現実の使用により、私たちが住む「空間」を大きく変化させることができるようになる。PC上に生成さた拡張現実をホログラムを使用して空間に投影することで、例えば私が、早死したかつての「恋人」をホログラムとして自分の部屋に出現させ、彼女と対話することを試みることができる。或いは、テレビや映画ではなく直接に見たいと願っていた「恐竜」を自分の部屋に出現させたり、窓の外の空中を飛んでいる様子を演出することができる。
[2]
In our modern digital society in which augmented reality is highly developed, people’s desire are visualized as “Information” and it is filing in the space, then the space is greatly transformed. Such an evolution of the information space is very useful, as long asl we keep in mind that what is visualized is “Information”, not “Reality“. Because, the quality of “Experience” will be changed and not only it will be possible to realize the dreams that humans were unable to do such as the reproduction of the lost existences, but also it will be useful to exploring the ideal way what people are seeking internally.
このように、拡張現実が高度に発展する現代のデジタル社会では、人びとの望みが「情報」として視覚化され、空間を満たすようになり、空間は大きく変質する。視覚化されるものは「情報」であり、「実在」ではないことに注意さえすれば、このような情報空間の進化は有益である。「経験」の質が変容し、失われた存在の再現など、人間には不可能だった夢を実現できるようになるからである。また、人びとが内心では何を求めているのか、潜在願望の在り方をさらに詳しく探求することにも役立つ。
2 Real and Fake, Original and Imitation /
本物と偽物、オリジナルと真似
[1]
On the assumption that about the lost beloved thing, or about the old best friend we can no longer meet, as much as we remember, and we design a reproduce about them on our PC using digital technology, and at one time if we can reproduce “things or person with something special familiar feeling” as the images on the screen and if we can really feel “That is it!” In that case, is the existence on the screen “Fake” rather than “Real“? Also, on the assumption that we continue to input the conditions such as our “Favorite Melody and Favorite Harmony” into the “Automatic Music AI Program” that learned many music in the past, and at one time, if we can output “Music or Song that makes us feel special emotion with some reason“. In that case, is its music or song an “Original“, or an “Imitation“?
紛失した愛用品について、或いは今は会えないかつての親友について、可能な限り思い出し、デジタル技術を使用してPC上で再現したとする。そして、ある時、「特別に親しみを感じるモノや人」を画面上の像として再現でき、「これだった!」とか「彼(或いは彼女)だった!」とつよく感じたとする。その場合、画面上の存在は「本物」ではなく、「偽物」だろうか? 或いは、過去の多くの曲目を学習した「自動作曲AIプログラム」に自分の「好きな旋律、好きな和声」などの条件を入力し、ある時「なぜか、これだ!、と叫ぶような特別な感動を覚える曲や歌」を出力できたとする。この曲や歌は、私の「オリジナル」な作品と言えるのか? 或いは依然として「真似」の世界なのか?
[2]
Now in our society, it is possible that we will be suddenly arrested one day by a police officer and we can see ourselves as one of the criminals in a scene photography of a bank robbery shown as the evidence at the police office. Even if we protect “It is a deep fake, not real“, the proof becomes more difficult if we don’t have an alibi and the higher AI technology used. Similarly, if I modify a Van Gogh painting with AI and sell it saying “This is my new work“, it will be difficult to probe that it is not the original if AI technology is high. How to do in these cases? In any case, a new understanding and countermeasures for “What is Real? and What is Original?” will be necessary.
最近では、ある日突然私が警察に逮捕され、警察で証拠として見せられた銀行強盗の現場写真に私が犯人の一人として映っているという事は、あり得る。私がいくら「それは偽物、本物ではない」と抗議しても、偶然その日のアリバイがなかったり、使用されたAI技術が非常に高いとその証明は困難になる。同様に、ゴッホの絵をAIで改変し、あたかもゴッホを超えたかのような高レベルの作品を仕上げ、「これが私の新作です」と言って売り出しても、AI技術が高ければ、それがオリジナルではないことを証明するのが困難になるのではないか? これらの場合、どうすればいいのか? いずれの場合も、「本物とは何か? オリジナルとは何か?」に対する、これまでには不要だった新しい理解と対策が必要になってくる。
3 Reality and Idea, Nature and Artificial /
現実と観念、自然と人工
[1]
If such a situation is possible, we design “Artificial Love” that exceeds “Natural Love” in the degree of happiness. For example, Mother Teresa, who was single all her life, said “No, I am married with Jesus.” She said that she could bear the daily hard work for the people through this living with Jesus. What kind of existence such as Jesus? She was lucky enough, or because of her special ability to feel closer to Jesus, so just could she escape from “Real” world to “Ideal” world?
さらに、もし私が、幸福度においては「自然の愛」を凌駕するような「人工の愛」のデザインに成功したとすれば? 例えば、生涯独身だったマザーテレサは「いいえ、私もイエスと結婚しています」と言い、日々の辛い仕事もイエスと共に生活しているので耐えられると言っていた。このようなイエスとは、どのような存在なのか? マザーテレサは、幸運にも、或いは彼女の特殊な力によりイエスを身近に感じることができ、「現実」から「観念」の世界に逃避できていただけなのか?
[2]
In our real word, in truth, there is a limit to “Natural Love“, and even if we think that its love was realized with 100 percent, but later we think it was not enough. Also, my love with Elena ended without being realized as full love because of my immaturity and because she died young. Can I challenge to realize “Love with 100 percent” as “Artificial Love“, as “Living Image“, if I can rebirth Elena as artificial information and start over the relationship with her?
私たちの人間世界の歴史においては、現実世界での「自然の愛」には限界があり、100パーセント実現されたと思った愛でも、そうではなかったと後で思う場合も多い。私のエレナとの愛も、私の未熟のせいで、また彼女が若くして死んだせいで、充分な愛として実現されることなく終わった。そのため、もし私が、エレナを「人工」の情報として再生させ、彼女との関係をやり直すことができるなら、「人工の愛」として、「生きたイメージ」として、「100パーセントの愛」の実現に挑戦できるだろうか?
4 From Information to Experience, New Life Space
情報から体験へ、新しい生活空間
[1]
We design “Information” that stimulates “Experience“. As the game designer Tetsuya Mizuguchi suggests, a new flow of “From Information to Experience” will emerge in accordance with the evolution of information space. The accuracy of information that can be perceived by humans is limited to 8K. So, even if the accuracy is increased beyond 8K, humans can’t recognize it, so it is worthless. Because humans desires are endless, people who are tired for pursuing the accuracy of information will start to seek “Actual Experience” of information. There is no limit in the world of experience such as information, and the experience keeps an unknown depth, so the quest never stops.
私は、「体験」を促すような「情報」をデザインしたい。私は、現在の情報空間の進化につれて、「情報から体験へ」という新しい流れが誕生していくと考えている。人が知覚できる情報の精度は8Kが限度で、それ以上は精度を増しても人は認識できず価値がないと言われている。しかし、人間の欲求にはキリがないため、情報の精度の追求に飽きた人びとは、情報の実際の体験を求め始めることになるだろう。体験には情報のような限度はなく、昔も今も体験は未知の深さを保っており、どこまでも探求を続けることができるからである。
[2]
Even if my Elena and dinosaur who appeared in my information space gained more precision and were able to interact intimately and enjoy this experience like a real experience, but it were not real revivals of Elena and dinosaur, so my room is a same room. When I cut it off, it stays in its original room and my life has not changed. But, taking this opportunity by my Elena and dinosaur, if my life will change? For example, what if a doorbell ring while I am talking with Elena and a woman who looks exactly like Elena is standing there? And what if she says “I feel I am called here, so I come“, and I feel she is a “Lover’s Rebirth“, and a new life starts with her? If such a situation occurs, it may be a wonderful example that information has changed the condition, and information has created a “New Experience“?
情報空間に登場させた私のエレナも恐竜も、どれほど精度が増し、親密に触れ合うことができてこの体験を実体験のように享受できても、実際にエレナや恐竜が蘇生したわけではなく、私の部屋が変化するわけではない。電気のスイッチを切れば元の部屋のままで、私の生活には何の変化もない。しかし、登場したエレナや恐竜を契機に、私の生活が変化するとすれば? 例えば、私がエレナと話し込んでいる時に玄関のベルが鳴り、そこにエレナとそっくりな女性が立っていたとしたら? つまり、私が制作し私の部屋に登場させたエレナは、私はあくまで仮想の存在と思っていたのに、この世に対応する実在をもっているとすれば? その場合には、私の創造が「一定の限界」を超えていたのか? そして、彼女が「私、あなたに呼ばれた気がしたので、ここに来ました」と言い、私にも彼女が「恋人の再生」と感じられ、彼女との新しい生活が始まったとしたら? もし、そのような事件が起きるなら、情報を契機に事態が一変し、情報が「新しい体験」を呼び起こしたという驚くべき事件になるのではないだろうか?
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